クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

人生航路の第二段階(43)救いの恵み~神の愛

 キリスト者は洗礼を受け、キリストに結ばれます。神から義と認められ、新しく生まれた者となります。新しく創造された者となります。聖霊がキリスト者のうちに住まわれます。新生、聖霊の内住、いずれも神の救いの恵みです。そして聖霊により、神の愛が私たちの心に注がれます。神を愛する心が与えられます。

 キリスト者は神を愛する心が与えられたことを信じるわけですが、戸惑いを覚える人も多いと思います。律法学者から「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」と尋ねられたとき、主イエスはこう答えられました。

マルコ 12:29~30
「一番たいせつなのはこれです。イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。

 心と思いと知性と力を尽くしてあなたの神である主を愛しなさいと主イエスは答えました。聖霊によって神を愛する心が与えられているとしても、全身全霊をもって神を愛しなさいと言われても、無理だとの思いがつきまといます。全身全霊をもって神を愛する人というのは、完璧に愛の人でなければ到達できないと思わされます。

 あるいはヨハネの手紙一に次のような言葉があります。

ヨハネ一 5:3
神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。

 多くのキリスト者はここで、「神を愛するなんて無理!」と手を上げてしまうのではないでしょうか。聖書の教えによれば、人間の本性は腐敗しています。きつい表現ですね。ハイデルベルク信仰問答では、「わたしは神と自分の隣人を憎む方へと生まれつき心が傾いているからです」。この生まれつきの性質は、キリストを信じたからといって消えてなくなるわけではありません。聖霊が内住してくださったからといってきれいになくなるわけではありません。

 聖霊によって与えられた神を愛する心、生まれつき私たちの中にある神を憎む傾向、言い換えると自分を第一に愛する心は対立します。ですからキリスト者は経験的に「神を愛するなんて無理!」と手を上げてしまうのではないでしょうか。

 牧師として自分自身が「神を愛するなんて無理!」と思いながら、全身全霊を持って神を愛する、これが神の教えです。さあ、努力しましょう、とは説教できません。自分が実践できないことを説教で実践しましょうと説教することはできません。だからといって、「これは無理な教えです」とも説教できません。当然ですが、説教者として悩みます。お手上げと言って、「神を愛する」ことを説教することから逃げることもできません。このどうしようもない状態からの解放、これもまた救いの恵みです。

 聖霊によって神を愛する心を与えられたことを素直に受けとめ、まずは喜びたいと思います。ここから可能性が広がっていくからです。

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