エフェソ書が語る教会は、キリストを頭とし、信仰者はキリストの体の部分ですが、頭とつながり、キリストに結ばれていると書かれています。そこでキリスト者の祈るべき祈りが3章16~17節にあります。
エフェソ 3:16
どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。
キリスト者とは、心の内にキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかり立つ者を目指すことを教えられます。キリストに自分の心の内に住んでいただくと言っても、心が乗っ取られるわけではありません。そうではなく、私の心がキリストの心に近づくことと言えます。キリストに感化され、キリストに似た者になると聖書は語っているように思います。
使徒パウロは、ガラテヤ書でこう書いています。
ガラテヤ 2:20
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
パウロはどんな思いから、このような発言をしたのかと思います。
御言葉が人となったのがイエス。そしてイエスはメシア(キリスト)。だから私は御言葉を蓄え、御言葉に立ち、御言葉に生きることをもって、キリストが私の内におられ、わが内にキリストが生きておられると考え、生きてきました。でも、聖書の言葉に生きるということと、キリストという人格が私のうちに生きているというのとは違うような気がします。
だから、エフェソ書のパウロの祈りを祈ることが必要、大切なことを思います。祈ったらどうなるのか、祈り続けたら、キリストが内におられることがどういうことか、分かるかもしれません。