私の父は、肺がんを患い手術しました。それから二年後、がんが再発しました。父にはホスピスに入院してもらいました。妻と末っ子の息子(3歳)は毎週、私は一週おきに見舞いに行きました。私は御殿場に住み、ホスピスは浜松にありました。見舞いに行くときは、病院の近くで食事をしました。父は孫と会えるのをとても喜んでくれました。
私は父がどんな思いで闘病の日々を過ごしているのか、迫り来る死を前にしてどんな思いでいるのか、話題にすることはできませんでした。心の深いところにある思いに踏み込むことにためらいを感じていました。やがて父は亡くなりました。
私は今、父より長生きしています。時々、何とも言えない重苦しい気持ちで目覚めるときがあります。私の心に死が影を落としているのです。余命を宣告されているわけではなく、元気な日々を過ごしています。若い時と違って老いの身に死が影を落とすのは自然のことだと思います。
クリスチャンは死を越える希望があるので、乗り越えることができるはずですが、そう簡単にはいきません。私の場合は、死を越える希望をどのように思い描くかが課題だと思っています。
テモテ二 4:6~8
わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。
義の栄冠を私も待ち望むことができると教えられます。主イエスより義の栄冠を受け取る場面を思い描きます。
フィリピ 3:13 兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、
フィリピ 3:14
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。
讃美歌370
めさめよわが霊 こころ励み
ちからの限りに いそぎ進め
いのちの冠は わがためにぞ
天にゆくはせばに そなえらるる
義の冠、いのちの冠をいただくことを思い描いて、重苦しい気持ちを振り払います。この重苦しい気持ちは、私の心を聖書に向けさせます。キリスト者の真の希望は何か、考えるように促されます。
