クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日は日曜日。G教会の礼拝に奉仕をしてきました。一ヶ月かけて今日の説教の準備をしてきました。説教題は「世を去る時の望み」。使徒パウロは、テモテの手紙二の4章で、「世を去る時が近づきました」と語っています。神さまに導かれて説教を作成することができました。礼拝からの帰り、ふと思いました。求道中の若い時の自分に聞かせたい説教だったな、と。


 私が求道したのは社会人になってからですが、死の恐れからの解放と生きることの空しさからの解放を求めてでした。神をまだ信じていない頃の私の願いは、「そのためなら死んでもよいと思えることをしたい」でした。牧師の働きのためなら死んでもよいとは一度も思ったことはありませんが、この働きに導かれたことは感謝なことでした。牧師となり、聖書を深く学び追求できることはありがたいこと、恵みです。死を越える希望をいかにして持つことができるのか、聖書の探求は続いていますが、今回説教準備を通して一つの前進を与えられました。人生のゴールを神の国におくことをあらためて確認しました。私のゴールは、神の国でイエス様とお会いすることです。それ故この世の歩みにおいて、イエス様を愛する歩みを続けることを確認しました。

わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。
わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。

これが今日の説教の聖書テキストです。説教準備で驚いたことは、「主が来られるのをひたすら待ち望む」の「ひたすら待ち望む」という言葉です。ギリシャ語では、アガペー(愛)の動詞が使われているのです。直訳すれば「愛する」ですが、主が来られるのを「愛する」と訳すわけにはいきません。それで「ひたすら待ち望む」と訳されています(新共同訳聖書)。イエス様を愛するゆえに、イエス様とお会いするのをひたすら待つのですね。


↑私の住まいの近くに白毫寺というお寺があります。