クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

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聖書 テモテ二4:6〜8
説教 この世を去る時の望み
2018/01/28

→私たちは命に限りのある存在です。
私は、安心して死ねれば安心して生きることができる、と考えていて、
どうしたら安心して死ねるのかは、
若い時から考えてきたように思います。
私たちはいつの日か、この世を去ります。
すると自分の死をどう受け入れるのか、
どう受けとめるのか、という問題が生じます。
二つの受け入れ方があると思います。


→一つは、自分が死ぬのは仕方がない。
でも神の国に迎えられる希望があるので救われるという受けとめです。
人は永遠に生きるわけではないし、限りある命を生きるのです。
死ぬのは仕方がないと考えるのです。
もう一つは、いよいよ神の国に迎えられるのだから、
喜びと期待を抱き、死んでいこうという受けとめです。


→私が年を取り、自分の死を意識した時、最初に抱いた思いは、
最初の受けとめです。
神の国の希望はあるが、仕方なく死んでいくというものでした。
宗教改革者のルターは自分の死についてこう述べたそうです。
「私はいつ死ぬか知っている。どこへ行くかよく知っている。
つまり天国に行くことを知っている。
しかし、私が必ずしも喜んでいないことに驚いている」。


→人間であれば、
どうしても死を喜べない心があるのは確かだと思います。
しかし聖書は、死を喜べないのは仕方がない、
とは教えていないと私は思います。


→たとえばイエス・キリストを宣べ伝えたパウロはフィリピの信徒への手紙でこう述べます。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、
死ぬことは利益なのです。
この世を去って、
キリストと共にいたいと熱望しており」(フィリピ1:23)。


パウロは、今すぐ死んで神の国に迎えられ、
キリストと共にいることを熱望しているというのです。
でもこの世に生きるなら、実り多い働きができるので、
どちらを選んだらよいか分からないと語ります。
死ぬのは仕方がないなどとは考えていません。
死ぬことは益で、
キリストと共にいることができる、なんという幸いだ、
そんな気持ちなんですね、パウロは。
私はパウロのように、
喜んで死を受け入れる者でありたいと考えます。
そして今日の説教の準備をする中で、
導きを与えられたいと願ってきました。
今日も聖書が語ることを共に聞きましょう。

→6節を読みます。
「わたし自身は、
既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」。


パウロは、
自分が世を去る時が近づいていることを自覚しています。
そのパウロが、「わたし自身は、
既にいけにえとして献げられています」と語ります。


パウロという人物は、最初、
クリスチャンを迫害していた人物です。
ある時、復活されたイエス様に出会い、劇的な転換を遂げます。
彼はイエス・キリストを宣べ伝える者にされます。
彼の歩みは、キリストを信じる者を迫害することから
キリストを宣べ伝える者へと逆転をしました。
しかし彼の中には一筋の変わらないものがありました。
それは神に対する熱心です。
神との関わりに生きるという点では、パウロは一貫しています。
神に対する熱心さのゆえにクリスチャンを迫害し、
今度は、神に対する熱心さのゆえに
イエス・キリストを宣べ伝えたのです。
復活の主イエスに出会い、
イエス・キリストを宣べ伝えるという使命をいただき、
この使命に忠実に彼は歩み、今世を去る時を迎えようとしています。
パウロは自分の人生を神さまにささげ、
イエス・キリストを宣べ伝えることに
その生涯をささげました。
自分の人生を神さまに献げる、
言い換えると
自分の人生をいけにえとして神さまにささげたということです。


パウロはローマの信徒への手紙12章でこう語ります。
「兄弟たち、
神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、
あなたがたのなすべき礼拝です」。


→あなた自身をいけにえとして献げなさいとパウロは命じます。
それがあなたがたのなすべき礼拝だというのです。
礼拝は日曜日に行われるだけではありません。
私たちにとって生きるとは、神さまを礼拝することなのです。
神様に喜ばれる歩みをささげるのです。
日曜日の礼拝は、
私たちにとって生きることが礼拝であることを示すしるしなのです。
礼拝の中で献金を献げる時、この献金は献身のしるしと言われます。
献身とはこの身を献げるという意味です。
自分をいけにえとして献げることを意味します。
パウロは、あなた自身をいけにえとして献げなさいと命じます。
私たちもまた、神さまから使命を与えられています。
信仰者として生きる人生を神さまに献げるのです。

→自分を神さまに献げてきたパウロが語ります。
「世を去る時が近づきました」。
この時、パウロは自分の人生を振り返って言います。
7節。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、
決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました」。
パウロは自分の歩みをマラソン選手にたとえているように思えます。
コリントの信徒への手紙一9章でこんなことを語っています。
「あなたがたは知らないのですか。
競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。
あなたがたも賞を得るように走りなさい。
競技をする人は皆、すべてに節制します。
彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、
わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」。
パウロは朽ちない冠を目指して走る競技者に自分をたとえています。


パウロイエス・キリストを宣べ伝えるために、
地中海沿岸を旅しました。
さまざまな困難に直面しました。
コリントの信徒への手紙二に、そのことが詳しく書かれています。
飢え渇き、寒さに凍えたこと、乗っていた船が難破し漂流する、
それも三度も、
さらに迫害を受け、投獄され、鞭打たれることも、
死ぬような目に遭ったことはたびたび。
普通の人だったら、こんなに大変ならもうやめる、
と投げ出してもおかしくないほどの
苦労、辛い経験をしました。
またパウロが伝道をして教会ができあがりますが、
後からその教会にやってきた人たちが
パウロを非難し、
教会の人からも偽使徒と呼ばれる経験もしています。
でも彼は投げ出すことなく、
イエス・キリストを宣べ伝え続けました。
忍耐を重ね、神さまに不平を言うことなく、
ひたすら使命に忠実に歩みました。
さまざまな困難を、神さまに信頼して乗り越え、
信仰によって走ってきたのです。
信仰の戦いをし、信仰を貫いてきました。
そして今や、世を去る時が近づいたと語ります。


→私たちも長い人生を振り返るなら、さまざまな困難があり、
苦労があり、
戦いがあったことを知ります。
信仰を持とうと持つまいと、人生を生きることには、
戦いや苦労が伴います。
私たち信仰者の特徴は、
信仰によって物事に対処して生きる点にあります。
私たちも信仰によって戦い、人生を歩んでいます。
そして私たちもいつの日か、世を去る日の到来を意識します。

→自分が世を去る時が近づいたことを知ったパウロは何と言ったのでしょうか。
8節。「今や、義の栄冠を受けるばかりです。
正しい審判者である主が、
かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」。


パウロはこれから起こることを知っています。
最後の審判を受け、
そして与えられた使命をよく果たしたと神さまからほめていただき、
義の冠を受けることになるというのです。
ラソンのレースで優勝した人が、
優勝したという栄光を表す冠をいただくように
自分は義の冠を受けるとパウロは語ります。


→かつてパウロは、
神に対する熱心さのゆえにクリスチャンを迫害しました。
エスが救い主であるはずがないと思い込んでいました。
しかしそのイエスを神さまが救い主とされたことを知り、
自分は神のみ心を少しも知らなかったことを悔い改めました。
かつてのパウロは、神さまの御心を知ることよりも、
神様の戒めを守ることに熱心でした。
しかし誰よりも戒めを守っているとの誇りは砕かれ、
神様が救い主を送られたことを認めず、
その救い主を信じる者たちを迫害し、
神様のみ心とは全く逆の歩みをしました。
そこで自分こそ、世界で一番罪深いものだとの告白をしました。
そのような自分をイエス・キリストのゆえに罪を赦し、
神さまは自分のことを正しい者と見てくださったことを
感謝をもって信じていました。
そして今や、神の国に迎えられ、
「あなたは私の目に義なる者、
正しい者としての歩みを全うした」と神さまから言っていただき、
義の冠をいただくことを喜びとしています。


→そこで思います。
義の冠を神さまからいただく、
それはパウロの人生のゴールであると。
パウロはゴールを目指して走り、今やゴール直前にいます。
この世を去り、神の国に迎えられて義の冠をいただくのです。
パウロにとってこの世を去ること、つまり死ぬことは
決して、仕方なく死ぬということではありません。
そうではなく、死は喜ばしいものです。
義の冠をいただけるからです。
義の冠をいただくためには喜んで死ねるのです。
決して、仕方なく死ぬのではありません。
義の冠を神さまからいただく、それがパウロの人生のゴールでした。
死でもって人生が終わるのではありません。
死の向こうに人生のゴールがあるのです。
そして私たち信仰者は、このゴールを目指して生きるのです。


→私がそうでしたが、
仕方なく死ぬという考えは、
人生のゴールを見失っているから生じるのではないかと思います。
神の国に迎えられたら自分がどうなるかというイメージがないのです。
つまり人生のゴールがないのです。
そうすると、この世の人生はこの世の人生であり、
死んだら、神の国に行くと考えるのです。
この世の人生と神の国が結びついていないのです。
この世における私たちの歩みが、神の国と結びついていないのです。
神の国は死んだら行く場所なのです。


ヨハネの手紙一にはこう書かれています。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、
自分がどのようになるかは、まだ示されていません。
しかし、御子が現れるとき、
御子に似た者となるということを知っています。
なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、
自分を清めます」。


→要するに、私たちが神の国に迎えられる時、
御子イエス・キリストに似た者に変えられるというのです。
つまり神の国にふさわしい者へと変えられるというのです。
そして神の国にふさわしい者へと変えられることに望みを置く者は、
御子が清いように、自分を清めるというのです。
このヨハネの手紙の場合、
神の国において御子に似た者となる、これが人生のゴールです。
このゴールを目指すので、この地上の歩みにあっては、
キリストのように自分を清める歩みをするというのです。
人生のゴールとこの世の歩みが結びつくのです。

→私たちは神の国というと、素晴らしいところと考えますが
それ以上、
具体的なイメージを描くことが少ないのではないでしょうか。
するとどうなるのでしょうか。


浄土真宗を開いた親鸞の教えを伝えるものとして歎異抄という本があります。弟子の唯円という人が書いたものとされています。
その歎異抄の中で、弟子の唯円親鸞に尋ねます。
「私には急いで浄土に行きたいという心がないのは、
どういうわけでしょうか」。
浄土、それは素晴らしいところと信じるわけです。
どんなに素晴らしくても急いで行きたいとは思わないというのです。
すると親鸞は、お前もそうなのか、実は私もそうだというのです。
宗教改革者のルターも同じであったことを先ほどお話ししました。
浄土にしろ、天国にしろ、
それがすばらしい理想的な所という理解だけでは、
そこに行きたいという積極的な心は生まれないのです。
だから、死ぬのは仕方がないから死ぬのであり、
幸いなことに死んでいくところがあるので救われるということになります。
ルターや親鸞がそうなら、そういうものかと思ってしまいます。
でも聖書は死ぬのは仕方のないものとは教えていません。


→聖書は人生のゴールを語り、
その人生のゴールに向かって生きることを教えています。
聖書にはいくつかのイメージがあります。
信仰によって人生を歩み通した人には、
冠が授けられるというイメージ。
パウロは、義の冠をいただけると今日の聖書で述べています。
主のおいでになるのを待ち望む人なら誰でも
義の冠を受けることができると今日の聖書は約束しています。
聖書の他の箇所には、命の冠、朽ちない冠、
しぼむことのない栄冠を受けると書かれています。


→あるいはタラントのたとえが語るように、
神さまからいただいた賜物を生かしてこの世を歩み、
「忠実なしもべよ、よくやった」と
神さまからほめられるイメージがあります。
あるいは、、これは先ほど述べましたが、神の国において、
キリストに似た者とされるというイメージがあります。
神の国にふさわしい者に変えられるのです。
さらには、この世にあっては神さまの姿はぼんやりしていますが、
神の国では、
顔と顔を合わせるかのように神さまを見るというイメージがあります。
パウロは、キリストと共にいるというイメージを抱いています。
聖書は神の国について豊かなイメージをもって語っています。
そして私たちはその中に迎えられるのです。


→もし私たちが自分の人生のゴールを聖書に従って定めるならば、
そのゴールを目指すのにふさわしい歩みを今、することができ、
この世を去る時までこれを続け、
ゴールインすることに喜びと幸い、
感謝を持つことができると信じます。
そうすれば仕方なく死ぬという思いから解放されて、
この世にあっては精一杯生きることができ、
喜んで死という扉の向こうに行くことができると信じます。
私は自分の人生のゴールを、
エス様とお会いすることにおこうと今、
考えています。
そしてイエス様にお会いした時、
喜びで包まれるように
この世にあっては、イエス様を愛する歩みをして行こうと思います。
急いで死ぬ必要はありませんが、
確かな人生のゴールを抱いて、
このゴールを目指して歩んでいきたいと思います。
人生のゴールについての豊かなイメージ、
これは聖書が与える大きな恵みだと信じます。
祈ります。