クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私は罪に対して死んだ

(クリスチャンの成長(52)キリストに結ばれて- 10)

ローマ 6:2
決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。

 実は、私たちが罪に対して死ぬ前にキリストが罪に対して死なれたのです。

ローマ 6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 キリストは救い主としてこの世においでになり、私たちと同じ人間になられました。罪が支配する領域・領土の中においでになったのです。キリストは荒野で悪魔の誘惑に遭われましたが、罪は犯されませんでした。さまざまな試練を受けられましたが、罪は犯されませんでした。最後には十字架で亡くなります。

 キリストの死の意義は、人間の罪を贖うための死であったという理解は多くの人がもっており、キリストを救い主と多くの人は信じています。あまり語られませんが、キリストの死についてのもう一つの理解は、キリストの死は「罪に対して死ぬ」死でした。

ローマ 6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

 キリストは罪に対して死んだ、と聖書は語ります。キリストは罪との関係で死んだのです。どういうことでしょうか。キリストは罪の支配する領域・領土からいなくなったという意味です。罪はキリストに対して何の働きかけもできなくなったという意味です。

 キリストは神に対して生きているとあります。キリストは神との関係では生きているのです。つまりキリストは復活し天に昇り、今は神の栄光の領域・領土におられるのです。このキリストに罪は手を出すことはできません。

ローマ 6:3
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

 洗礼を受け私たちはキリストに結ばれました。そして私たちはキリストの死にあずかるというのです。キリストが罪に対して死んだように、私たちも罪に対して死んだというのです。

 私たちが罪に対して死んだというのは、私たちももはや罪が支配する罪の領域・領土にはいないということです。私たちは罪の支配から離れ、罪の奴隷状態から解放されたのです。

ローマ 6:7
死んだ者は、罪から解放されています。

 上に述べたことは、なかなか理解しにくいです。自分の経験に基づいて理解できることではないからです。そもそも自分たちがかつては罪の支配する領域・領土に生きていたということさえ、理解しにくいです。

 使徒パウロは、今から二千年も前の人なのに、キリストによる救いの真理をこのように洞察していることにただただ驚嘆するだけです。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

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ダリア 馬見丘陵公園にて