クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

古い人、新しい人

 (クリスチャンの成長(55)キリストに結ばれて- 13)

ローマ 6:6
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。 

 罪に勝利して生きることを考えるとき、罪から解放された者として生きることを考えるとき、考えるべき大切なことが二つあります。第一は、古い人と新しい人の理解。第二は、肉の性質です。今日は、第一を取り上げます。

 パウロは、古い自分はキリストと共に十字架につけられたと語ります。つまり古い自分は死んだということです。古い自分とはどんな自分のことを言うのでしょうか。

 これは生まれながらの人間、キリストを救い主と信じる前の人間を指します。これをアダムと結ばれた人間と呼ぶことにします。これはキリスト者がキリストに結ばれた人間であることと対照をなしています。

 創世記3章でアダムは罪を犯し、エデンの園から追放されました。アダムが罪を犯した物語は、人は皆、罪を犯す者であることを告げています。この世に生まれた人間はアダムに結ばれ、罪を犯す者となっているという理解です。

 「人はなぜ罪を犯すのか」と言われたら、「アダムに結ばれているから」というのが一つの答えです。昔の人はアダムの罪(原罪)が人類に遺伝しているから、と考えました。私は原罪の遺伝という考え方はとりません。むしろ「アダムは私のこと」だと考えます。もし私がアダムの立場だったら、私もやはり禁じられた木の実を食べ、罪を犯しただろうと思います。そのアダムに結ばれた人間、アダムに他ならない私、それが古い人間です。古い自分です。

 新しい人。それはキリストを信じ、洗礼を受け、キリストに結ばれたキリスト者のことです。人はキリストを信じることによって、古い自分が死に、新しい自分が生きることになるのです。

ローマ 6:4
わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。

 キリストを信じる以前の私、古い自分、古い人間は、キリストと共に死んだのです。そして新しい人間、新しい自分が生きることとなったのです。

 古い人間は罪に支配され、罪の奴隷となり、罪を犯して生きてきました。この世の人は、自分が罪に支配され、罪の奴隷になっていることを知らないし、気づいていません。

 古い人が死んだということは、罪の支配がなくなったということです。死んだ人間は罪の支配を受けません。死んだ人間は、もう動かないのです。

 人類に歴史の中で、奴隷制度がありました。奴隷の主人がおり、主人に支配された奴隷がいます。その奴隷が死亡すれば、彼はもはや奴隷ではありません。主人は彼をこき使うことはもはやできません。その奴隷は葬られ、主人との関係はなくなります。

 古い自分、古い人は、罪との関係がなくなりました。罪はもはや支配することができなくなりました。

エフェソ 4:20~24
しかしあなたがたは、キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。

 ここには「古い人を脱ぎ捨て」とあります。あなたがたはキリストに結ばれたのだから、古い人は死んだのです。だから古い人のような生き方をしてはいけないとの教えです。新しい人を身につけるとは、新しい人になったのだから、新しい人として生きていきなさいとの意味です。

 この新しい人は、御子の支配下、恵みの支配下に生きているのです。

コロサイ 1:13
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。

ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

 キリスト者は新しい人にされていて、その古い人は死んだこと、キリスト者は御子の支配下、恵みの支配下にいるということは信ずべき真理であり、経験で確かめて納得して信じるような事柄ではありません。

 

f:id:holala:20201001154916j:plain

ヒガンバナ 馬見丘陵公園にて