クリスチャンの成長(46)キリストに結ばれて- 4
クリスチャンはキリストに結ばれた存在です。
ローマ 6:3
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。
私たちは洗礼を受け、キリストに結ばれ、キリスト者(クリスチャン)になりました。そしてキリストの死にあずかりました。言い換えると、キリスト者も死んだのです。
ローマ6:10
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。
キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたとパウロは語ります。キリストの死は私たちの罪の贖いのためです。それは私たちを信仰によって義とする目的がありますが、さらなる目的もあるのです。つまり私たちがキリストの死にあずかり、私たちも罪に対して死ぬのです。キリストを信じ、私たちも罪に対して死んだのです。
ローマ 6:1~2
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
信仰によって恵みにより義とされる。これは大切な教え、大切なキリスト教の重要な教理です。するとある人は言うかも知れません。「恵みによって義とされるのなら、もっと罪を犯しもっと恵みを受け取ろう」と。パウロは罪を犯すようにそそのかしているとの誤解が生じる可能性があります。そこでパウロはキリスト者が罪の中にとどまるなんて考えられないと語ります。それが2節です。
罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
ここで疑問が生じます。「罪に対して死んだ」。どういうことでしょう。だれそれはいつ、どこで、どのようにして死んだとの表現は普通です。彼はその目的のために力を尽くし、力尽き果て死んだ、と死んだ目的が語られることもあります。しかし「~に対して死んだ」という表現は、ほとんど使われないと思います。「会社に対して死んだ」「妻に対して死んだ」「国家に対して死んだ」「民主主義に対して死んだ」。どれも意味が分かりにくいです。
「罪に対して死んだ」も意味が分かりにくいです。この意味を理解するためには、パウロが罪についてどう語っているかを知る必要があります。たとえば
ローマ3:9
では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。
ここにはすべての人が罪の下にあると書かれています。さらに
ローマ 5:21
こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。
ここには、罪が死によって人間を支配していた、と書かれています。
ローマ 6:7
死んだ者は、罪から解放されています。
人は罪の下にあり、罪に支配され、しかし罪から解放されるとパウロは書いています。これがどういうことなのか、聖書に聞いていきたいと思います。そして「罪に死んだ」がどういう意味なのか、理解したいと思います。
キリストと結ばれて生きることを理解することは、救いの恵みの真の豊かさを受け取ることにつながります。