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隠退牧師 holala によるブログ

人々の不信仰に驚くイエス

 今日はマルコ福音書6章でイエス様が故郷のナザレにお帰りになり、安息日に会堂で教えられた箇所を読み、思いめぐらしました。会堂にいた多くの人たちは、イエス様の教えを聞いて驚きました。また「この人が行う奇跡は何なのか」と驚きました。しかし、人々はイエス様につまずいたとあります。「この人は大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか・・・」と言ったのです。

 イエス様の教えや行った奇跡には驚いたのですが、イエス様は自分たちと同じ村の人間であり、よく知っている人間だと言って、イエス様を信じようとしなかったのです。そこでイエス様は「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と話されました。

 人々はイエス様の教えを聞き、行った奇跡を見ました。この人はなぜこのようなことができるのか、自分たちが知っている人間であるが、なぜこのようなことができるのか、この人はいったい何者なのか、という追求はしなかったのです。驚くべきことが起きたのに、それをなかったことにしたのです。

 人々はイエス様の教えに驚き、行った奇跡に驚きました。でもイエス様を信じようとはしませんでした。そこにはプライド、妬みがあるのではないかと想像します。自分たちのよく知っている人間が、自分たちよりすぐれた人間であることを認めたくないとの嫉妬まじりのプライドです。

 たとえば自分が属している教会で、子供の時から知っている人が、青年になり、神学校に行き、牧師となって教会に戻ってきたとしたらどうでしょう。日曜毎にその説教を聞くのです。その若い牧師の信仰的な指導に従うのです。抵抗を感じるかもしれません。自分は長い間信仰者として生きてきたし今さら、子供の頃ヤンチャだったこの若い牧師の導きを受ける気持ちにはなれないなどと思うかもしれません。プライドがうごめいています。

 イエス様を信じなかったのは、故郷のナザレの人たちだけではありません。律法学者やファリサイ派の人たちは、宗教的指導者としてイエス様のことをライバル視し、イエス様のことを信じないで、批判しました。イエス様の教えは新しく響き、また奇跡は驚くべきものでした。新しい事態が起きたのです。そこで人はどうするか、です。それを受けとめるのか、無視するか、です。

 説教で新しいことを聞いたとき、それを受けとめるのか、聞き流すのか。受けとめて新しい自分になって生きていくのか、聞き流し、これまでの自分のまま生きていくのか。

 長い牧師人生の中で、何人かの人との出会い、超教派の集会にも出席しました。そして新しいことに直面しました。私は恐れず変化を求めました。自分が変えられることを求めて生きてきました。そしてよかったと思っています。一つ一つのことが神さまの導きと受けとめることができるからです。

 しかし変化を求めず、自分の変化を求めない人もいます。律法学者やファリサイ派の人たちは、宗教指導者であるというプライドがあり、イエス様を批判し、イエス様を信じ従うことはしませんでした。

 信仰生活の最大の障害はプライドだと思います。

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