クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

私にとっての主イエス(2) 十字架のキリスト

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。(ローマの信徒への手紙3章23~24節)。

 言うまでもなく主イエスは、二千年前に私の罪のために死んでくださった救い主です。伝道集会に誘われ、その後もその教会の礼拝に続けて通いました。ある時牧師から洗礼を勧められましたが、「罪が分かりません」と答えると、「それならまだですね」と言われたことがあります。転居したこともあり、しばらく教会に行きませんでしたが、伝道集会に誘ってくださった方がまた誘ってくださり、この方の通っている教会に出席するようになりました。

 ある時、礼拝が終わり、外でタバコを吸っていると牧師夫人が私を見て「まあ」と言われました。あの時、吸い殻をどうしたのか、忘れてしまいました。仕事の合間によくタバコを吸いました。ある時、タバコを吸うことが、神さまからゆだねられているこの肉体を傷つけていることを思い知らされました。以前にもこのブログに書きましたが、ある時咳をし、ハンカチを口に当てました。そのハンカチを見ると血がべっとりついていて、私は頭が真っ白になりました。

 神さまから管理をゆだねられている体を傷つけている、罰として裁きを受けても仕方がないと自分の罪を思わされました。あれほどのタバコを吸いたいとの強い思いが消えました。その時、思い出したのが十字架につけられたキリストです。キリストは私たちの罪のために十字架につけられたこと、キリストを信じる者は罪が赦されることを思い出しました。そして洗礼へと導かれました。

 あと一つ。自分を守るために思わず嘘をついたことがありました。その時は嘘をついたとの自覚がありませんでしたが、しばらくして、自分は嘘をついたことに気づきました。頭のてっぺんからつま先に至るまで自分は罪にまみれていると思いました。その時は、すぐにキリストによる赦しを感謝しました。

 その後は行為としての罪よりも、自分の心のあり様が、罪のそのものであることを知らされました。つまり自分は神を求めることなく、神のみ心に無関心であり、神と向き合って生きようとしていないこと、神を愛していないこと、そこに自分の罪の根本があることを知りました。牧師となっても、神を愛するよりも牧師としての自分を愛するのです。

 キリストによる罪の赦しを知ることはありがたいことです。神との間に平和を与えられて生きていくことができます。 

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夏の雲 散歩道で