最近第一テサロニケを読んでいます。ディボーションしています。今日は4章1~8節を読み、思いめぐらしました。この箇所には深く共感するものがありました。
3節
実に、神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです。
7節
神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
聖なる生活をすることが神の御心であると書かれています。神が私たちを信仰者へと導いてくださったのは、私たちが聖なる生活をするためであると書かれています。目を背けてはならない聖書箇所だと思います。
皆さん、聖なる者になりましょうと勧めた場合、考えられる応答があります。一つは「それは無理です」という応答です。私たちは罪深い者であり、聖なる者なんてとんでもないというものです。
第二は「聖なる者になろうとすることにもう疲れています」という応答です。これは私の勝手な想像ですが、聖なる者にならなければいけないと考え、神の教えに従わなければいけないと考えすぎると律法主義に陥り、聖化を目指すことに疲れ果てるということが起きるのではないかと考えます。聖なる者を目指すことは聖書が語る道筋で考えなければならないので、それからはずれると聖なる者となることを目指すことがしんどくなるわけです。無理が生じるわけです。
第三の応答は、聖書が示す道筋に従って聖なる者となることを目指すことです。私の属していた教派では、第一の「聖なる者になる」なんて無理ですという応答が多いと思います。
8節
ですから、これらの警告を拒む者は、人を拒むのではなく、御自分の聖霊をあなたがたの内に与えてくださる神を拒むことになるのです。
6節で聖なる者となることと反対のことをする者に対して、主は罰すると警告がなされています。8節では神は私たちが聖なる者になるために、御自分の聖霊を私たちに与えてくださっていると書かれています。聖霊の付与、これは救いの恵みに他なりません。
「聖なる者になる」こと、それは無理と語る人たちに聖なる者になりましょうと勧めることはむずかしいです。しかし、聖書が語るように私たちが聖なる者となることは神さまの御心であり、そのために神さまは聖霊を私たちのうちに住まわせ、準備をされています。そこで思います。聖なる者を目指そうと語り続けることは私の使命ではないかと。発信の手段はいろいろあります。