クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を思いめぐらす(1)

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 16節の出だしは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。この場合の世は、世に住む人間を意味しています。神は世の人々を愛されました。どれほどの愛で世の人々を愛したかというと、それは独り子を与えるほどだというのです。独り子を与えるほどの愛って、どれほどの愛なのでしょうか。どれほど大きな愛なのでしょうか。それを知りたいと今、考えています。

 神が世の人々を愛したのには理由があります。その独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためであると説明されています。

 世にいる人間は、実は滅びに値する人間であることが示唆されているように思います。でも神は人間が滅ぶことを願わないので、独り子を送り、独り子を信じるなら、永遠の命を与え、滅ぶことのないようにしたというのです。人間に対して好意を神が持っていることが分かります。人間が滅びるという困難な立場にあるので、神は親切心を出し、御子をこの世に送り、御子を信じる者を救うことにされたように見えます。強盗に襲われて死にそうな人をサマリア人が助けたように、滅びの危機にある人を神は親切にも御子を送って助けたということなのでしょうか。

 人間は神に造られ、神の教えを守って生きるとき、幸いな歩みをすることができるようにされています。しかし人間は、神の教えを守らず、好き勝手に生きており、神の前に罪を犯して生きているのです。神は正しい神ですから、罪を犯す人間を放置することはできず、人間を罰する立場にあります。つまり人間は滅ぶ立場にあります。人間は神に反抗し、罪を犯し、神の怒りに触れて滅ぶべき者となってしまったのです。

 人間が神の教えを立派に守って神の前に正しい者となる努力を誠意をもってするなら、神が人間の罪を赦し、永遠の命を与えることにするというのなら、この理屈は理解できます。人は自分の罪を償うのですから理解できます。旧約聖書には人が罪を犯した場合、動物のいけにえを神に献げて罪を赦してもらう儀式が定められています。

 神が御子を世に送ったのは、御子が罪を償ういけにえとなるためでした。御子は最後には十字架で死ぬのです。神の方から罪を償ういけにえを差しだすというのは理屈に合いません。御子の死が自分の罪を償うためのいけにえの死だと信じるなら、永遠の命を受けることができるなんて、理屈に合わないし、とんでもない甘やかしに見えます。

 しかしこれが愛というのなら、愛って何なのという疑問が生じます。しかも、とても大きな愛だと16節の聖句は言っているようです。どういうことでしょうか。

フヨウ 朝開き始め 散歩道