クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を思いめぐらす(2)

 神の愛を考えさせる聖句がもう一つあります。

ヨハネ一3:1
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。

 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか」とあります。「どれほど」との言葉は、御父の愛の大きさ、あるいは深さを示す言葉です。御父の愛がどれほど大きいのか、どれほど深いのか、と語り、それを考えなさいと書かれています。「わたしたちが神の子と呼ばれるほど」と答えが示されます。

 「わたしたちが神の子と呼ばれるほど」に神の愛は大きい、神の愛は深い、と示されます。神の子と呼ばれるほどと言われてもすぐに神の愛に驚くわけではありません。私たちが神の子と呼ばれるからといって、感動も驚きも湧いてこないのが、現実かもしれません。

 「わたしたち」とは、どのような人間をいうのでしょうか。わたしたちとは、キリスト者です。自分の罪を知らされ、悔い改め、キリストが自分のために十字架で死なれたことを信じるキリスト者です。イエス・キリストが人類の罪を贖うために十字架につかれたことを信じるキリスト者です。

 そして、イエス・キリストを信じるゆえに、神から義とされたキリスト者です。さらに洗礼を受け、神の子とされたキリスト者です。

ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。

 聖書は、私に「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」と命じます。そして私は今、考えています。どれほどの大きな愛で、自分が愛されているのか、考えています。

 これまで説教をするとき、ヨハネ一の聖句は何度も引用しました。私たちは神さまにこれほどまでに愛されているんです、と語ってきました。しかし、「考えなさい」という言葉に私は目を留めてこなかったことに気づきました。そして今、考えています。

 そこで思い出すのが放蕩息子の物語です。自分が受け継ぐ財産を父の生前中に受け取り、それをお金に換えて家を出た息子。好き放題にお金を使い果たし、挙げ句の果てに生活に行き詰まり、家に戻った息子です。

 帰ってきたこの息子を父親は歓迎します。息子は、「もう息子と呼ばれる資格はありません」と言います。父親は何も言わず、息子によい服を着せ、自分の息子として歓迎しました。お金を無駄遣いしたことを一言も責めることなく、温かく迎えました。この父親の愛は、神の愛につながっていると考えます。

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