クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

わたしの願い

 牧師を隠退して説教準備に追われることがなくなりました。考える時間的なゆとりが生まれました。隠退して3年が過ぎましたが、この間、説教奉仕の機会が与えられ、いくつかの教会を見ることができました。現役の時も、地域の諸教会の状態を見ることができました。そして私たちは福音をきちんと把握しているのだろうかという反省を持つようになりました。つまり福音を罪の赦しの福音と考え、福音を罪の赦しに限定して考えているのではないか、との思いがふくらんできました。

 洗礼を受けた人たちは、罪赦され(義認)、新しく生まれた者となり、聖なる人を目指す歩み(聖化)をすることが聖書で教えられています。ところが「私は罪深い」と考える人が多いようなのです。礼拝の司式を長老・役員が行うとき、その祈りを聞いて、「自分は罪深い」との思いが祈りに現れているのです。私は罪の赦しを受けて感謝しますが、罪を犯して日々を送っている者ですという思いが伝わってくるのです。

 そんなわたしには二つの願いがあります。一つは信仰者が聖書に親しみ、福音(喜ばしきしらせ)を感覚的に感じとって欲しいということです。こう書いていて思い出したことがあります。昔先輩の先生が長老(役員)の務めは聖書に親しみ、説教を聞いておかしな点がある時、それに気づくことであるとおっしゃいました。

 もう一つは説教者が福音を余すところなく説教することです。しかも証しの言葉として語ることです。つまり福音を生きることから生まれてくる言葉を用いて説教することです。

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あぜ道ではなくドブの側溝に咲くスミレ