「わたしの主キリスト・イエスを知るあまりのすばらしさ」。これは使徒パウロの言葉です。このように語るパウロは、キリストについてこう語ります。
「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが公然とあがめられるようにと切に願い、希望しています」(フィリピ1:20)。
「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。・・・一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい」(フィリピ1:21~23)。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。
上に引用したパウロの言葉は聖書の中でも特に私の心をとらえる言葉となっています。若いとき、空しさを覚えて信仰に入った私には、このような告白ができたら素晴らしいな、と思っていました。そしてパウロの告白を目指して信仰の歩みを続けてきました。そして今、この目標に対して自分の歩みはどうだったのか、と考えます。
パウロが堂々と語るようには語ることはできませんが、同じ思いを持っていることはうれしく思います。自分のキリスト者としての歩みを考えるとき、キリスト教的思想、キリスト教的な考え方によって生きているというより、イエス・キリストの感化によって生きている、との思いがあります。言い換えれば、イエス・キリストがわたしの内にあって生きておられる、いのちとしてのイエス・キリストがわたしの内におられる、と私も告白したいと思います。私の生きる目的も、結局は、「生きるにも死ぬにも、わたしの身によってキリストが崇められる」ことにあります。
どれほど身についているのか、達成できているのかと言われるなら、試験の点数でいれば、80点、90点でなくても1点でも、3点でも点が取れればよいと思っています。大事なことはキリストに似た者となる歩みを続けることだと思っています。
「死ぬことは利益なのです」。この言葉はこれからの課題です。