今日からコリントの信徒への手紙二を読み始めました。ディボーションです。手紙の出だしでパウロは神さまをたたえます。
1:3
わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。
すばらしい告白であり賛美です。でも正直、このパウロの言葉に共感できるほどの思いは私にはありません。それなら自分はどのように神さまを賛美するだろうかと思いました。そのためには自分の人生を振り返り、信仰の歩みを振り返り、神さまをたたえる言葉を見つけたいと思いました。
今朝のNHKの朝ドラで主人公が自分が働く職場にある診療所の医師に「なぜ医師になったのですか」と聞きます。すると医師は「初めて会った人にするような質問ではないですね」と答えます。拒否されたと思った主人公が部屋を去ろうとすると「人の命を救いたいと思ったからです」と医師は答えました。
それで「あなたはなぜ牧師になったのですか」と聞かれたら、私は何と答えるのだろうかと一瞬考えました。私が神学校に行ったのは、聖書を学びたいとの思いからでした。牧師になるつもりで神学校に行ったわけではありません。しかし4年生になる頃には牧師になるのが自然という気持ちになっていました。つまり神さまは、私に働きかけ、牧師として生きるという志を与えてくださったことになります。今日、このことを明確に認識しました。ちなみに神学校に入学したのは30歳の頃です。
フィリピ 2:13
あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。
神学校に行くことなどまだ考えてもいない頃、幼なじみの友人が出張で名古屋から東京に来たときに会いました。その時私は「牧師になりたいという憧れがあるんだよね。でも人と関わるのは苦手な僕だから、無理だとは分かっているんだけどね」と話したことがあります。不思議なことにこのことは覚えています。20代半ばの頃のことでしょうか。記憶はもう曖昧です。
会社勤めをするようになった私に一つの願いがありました。「そのためなら命を賭けてもいいようなこと」に従事したいとの願いです。こうして振り返ってみると、一本の道を歩いているような気がしてきました。そしてもしかして、と思うことがあります。
神さまは預言者エレミヤに語りかけました。
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。
そしてパウロの言葉。
ガラテヤ1:15~16
しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた
神さまは、私が母の胎内のある時から福音を宣べ伝える者として私を選んでいてくださったとしたら、私は何と言って神さまをたたえたらいいのでしょうか。今日の宿題です。