クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

あなたがたは世の光である(3)

 主イエスは、暗闇の世界に光としてこられました。暗闇の世界、それは罪が支配する世界、罪の暗闇の世界です。そして主イエスを信じる私たちに向かって「あなたがたは世の光である」と言われます。

 えっ、私が世の光?キリスト者の私は戸惑います。なぜ私のことを世の光と主が言われるのか理解できません。この世には信仰は持たなくても私よりすぐれた人は沢山います。この世が少しでもよい社会となるように力を尽くしている人たちが沢山います。彼らではなく、私が世の光と言われるなんて信じがたいことです。それでもキリスト者である私が世の光であるとするなら、それは私がもっている何かによるのではなく、私がキリスト者であるから、世の光と呼ばれることになると推測します。

 主イエスご自身「私は世の光である」と言われました。洗礼を受けキリスト者になった私は、信仰を持たない世の人々と違う点があります。主イエス・キリストを信じ、信仰に生きようとしている点が世の人たちと違います。世の人との違いを突き詰めるなら、神を信じ、神に従うことを志し、神の御心に従う歩みをする努力をしているところに私と世の人との違いがあります。自分が犯した罪を悔い改めるキリスト者と自分の罪を認めず、罪を犯していると考えない世の人との違いがあります。

 キリスト者としてふさわしく生きる、それが世の光なのだと教えられます。キリスト者は神の御心を大切にして歩みます。世の人は自分の思い、考えを大切にして歩みます。両者の歩みには違いがあります。世の人がこの違いに気づいたとき、どう考えるか、どうするか、です。

 暗闇の中にいる人は自分が暗闇の中にいるとは分かりません。しかし光が照ると、自分が暗闇の中にいたことが分かります。世の人たちがキリスト者の歩みを見るときに、自分との違いに気づきます。その時、どうするか、です。

ヨハネ 3:19~20
光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。
悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

 主イエスは光としてこの世に来られました。主イエスと対立したのが律法学者、ファリサイ派の人たちです。彼らは、自分は神の律法を守っていると自負していました。彼らは主イエスの説教を聞いて反発しました。主イエスを憎みました。主イエスを死に追いやりました。主イエスが彼らの罪を明らかにしたからです。彼らは自分の罪を悔い改めることをせず、光を憎みました。

 キリスト者の歩みは、世の人に自分の歩みがいかなるものかを考えさせると知ります。イエス・キリストに従う歩みをすることは世の光としての歩みをすることになると教えられます。私が他のキリスト者の歩みを見て、彼我の違いを知るとき、自分がどうするのか、問われます。

霧ヶ峰車山 2013.8