使徒パウロは、フィリピの信徒への手紙で「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」と語ります。何が素晴らしいのかは語っていません。私にとって、このすばらしさとは何か、いつかきちんと考えなければと思っていました。ピリピ書のデボーションをして、その機会が与えられました。私の証しです。
私は、イエス様が私のために何をしてくださったのか、それを知り、イエス様を救い主として受け入れました。イエス様が私の罪の贖いのために自分を十字架の上に犠牲として献げたこと、そのことのゆえに、私は罪が赦されることを信じて洗礼を受けました。私は信仰によって義とされ、神さまとの間に平和を得ることができて、信仰者として平安と喜びをもって生きることができるようになりました。
信仰を持つ前、イエス様が自己犠牲の歩みをしたことを知ったとき、生きることの空しさを覚えていた私は驚きました。同時にそこに実は空しさを克服する歩みがあるのではと予感をしました。自己犠牲の歩みはマイナスとは限らない。だから、私は牧師になることを受け入れることができたのかもしれません。自分の人生を神さまに献げる歩みをしました。ロマ書の12章の冒頭の言葉は、若き日の私にとって重要な聖句です。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。
牧師になるときは、色々なものを捨てました。牧師となっていただいた最初の謝儀(給与とは言わない)はサラリーマンとして働いていたときの給与の半分以下、いや三分の一位でした。生活のレベルを下げなければなりませんでした。最初は苦痛がありましたが、そのうちに慣れました。趣味も捨てました。登山、囲碁に時間を使うことはできませんでしたし、使うつもりもありませんでした。若い私には誇るべき家柄、地位、業績、名誉などはありませんから、これらを損失と見ることはありませんでした。パウロは、キリストを知ることのすばらしさのゆえに、その他のことは塵芥(ちりあくた)のように受けとめると告白しています。私はそれらのものが塵芥のようには思いませんでしたが、色々なものを捨てて牧師としての働きをしてきました。もちろん後悔はありません。イエス・キリストを信じ、信仰者として、牧師としての歩みができたのは、イエス・キリストのおかげです。
私にとって「救いの恵み」とは何でしょうか。
- 第一には罪の赦し、そして義とされ、神との間に平和を得たことです。
- 第二に死を越える希望を得ることができたことです。死の恐怖の奴隷から解放されたことです。
- 第三に新しく生まれ変わって神の子として生きることができることです。具体的には、御言葉によって生きる者とされたこと、つまり聖霊の導きを受けて生きることができることです。
- 第四には、人を愛することを教えられ、妻、家族、教会員を愛していきることができるようにされたことです。
- 第五には、福音を伝え、教会に仕える使命を与えられたことです。イエス・キリストのおかげで豊かに恵みを受けました。
でも私はイエス・キリストを知っているのかという問いが残ります。パウロはイエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさと語ります。そのすばらしさを私はどれほど知っているのか、この問いの前に立ち止まります。
この問いを考える手がかりは、イエス・キリストを知るとき、私たちは生き方が変えられるという点ではないかと思います。つまりイエス・キリストの感化を受けるわけです。私の歩みは、イエス・キリストに倣う歩みへと変えられます。どのように自分の歩みが変えられたのかをはっきりさせれば、どのように自分がイエス・キリストを知っているのかが分かるのではないかと思います。
私たちがイエス・キリストに似た者へと変えられることを示す聖句があります。これは私たちがイエス・キリストを知ることによって生じる変化だと思います。
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(コリント二3:18)。
「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(ヨハネ一3:2~3)。
自分がイエス・キリストをどう知っているかは、自分がどう変えられたのかを振り返ればよいことが分かります。私たちが本当にイエス・キリストを知るとき、そしてそのキリストをすばらしいと知るなら、私たちはキリストのように歩みたい、キリストの似姿に変えられたいと願い、そのように行動するにちがいないのです。生き方が変わるのです。パウロも「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」と語っています。
では、自分がどのように変えられたのか、振り返ります。これは次回。