クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

教会を考える(9)狭い福音理解

 いつの頃だったのかは思い出せませんが、心に一つの疑問が宿りました。私が牧会した教会では、礼拝の司会を長老(役員)がしていました。礼拝の中で司会者が祈ります。その祈りを聞いていると、キリスト者は罪の奴隷ではないかと思わされたのです。

 つまり礼拝の中で、一週の歩みを振り返り罪を犯しましたが、罪赦され、今神の御前に出ることができ感謝しますという祈りを繰り返し聞きました。私が牧会した別の教会でも同様でした。つまり、キリスト者の歩みが、罪を犯す、そして赦される、また罪を犯す、そして赦されるという循環の中にある、それは罪の奴隷ではないか、という思いを深くしました。

 キリスト者の歩みには成長があり、出発点は義とされることにあります。やがて罪に打ち勝ち、罪から清められるという聖化があり、キリスト者は聖なる者とされていきます。さらには、キリストに似た者とされていくという栄化があると聖書から教えられます。罪の支配から自由になっていく信仰者としての成長があるわけです。

 なぜ、罪の奴隷状態の中にいるような信仰生活が続くのか、疑問に思っていました。やがて次のように考えるようになりました。

 プロテスタントの出発点となった宗教改革者のマルチン・ルターは、信仰によって義とされるという福音を発見したことで知られています。彼は修道士となり、神の前で教えに従う誠実な歩みを実践しましたが、自分の罪を責め続けました。完璧に神の教えに従うことができていないと思ったからです。しかし信仰によって義とされることが福音であると知り、その苦しさから解放され、喜びをもって信仰の歩みを始めました。

 キリストを信じる者は義とされる、基本的な教えです。でも疑問が生じます。罪を犯したらどうなるの?

 罪を犯したら義とされるたことが取り消されるのか。それとも罪を犯してもなお義とされているのか。罪を犯してもなお義とされるなら、安心して罪を犯すことができるという思いさえ生じます。

 そこでキリストを信じることによって義とされることを語ることはせず、キリストの十字架の贖いのおかげで私たちは罪を犯しても赦されます、これが福音です、と説教されるようになったのではないかと推測します。こうすれば、罪を犯したら義とされることはどうなのか、という問題を避けることができます。

 こうして福音は罪の赦しの福音である、という狭い福音理解が生まれたのではないかと私は考えるようになりました。

 教会の礼拝に始めてきた人が、礼拝に続けて出席するようになると、「私は罪を犯しましたが赦されて感謝です」という祈りを毎週聞きます。果たしてこの人は、キリスト者になりたいと願うでしょうか。

 罪に打ち勝つ喜びや感謝、少しでもキリストに似た者へと変えられる喜び、これらが祈られないなら、伝道はむずかしいと私は考えます。そして伝道が振るわない原因の一つに、福音を狭く理解していることがあるのではないかと考えます。

 それゆえ、礼拝において福音が余すところなく宣べ伝えられるようにと私は祈っています。

奈良公園