12月24日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
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聞いていただけるとうれしいです。
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聖書 イザヤ書7章14節
ヨハネ福音書 3章16節
説教 永遠の命に生きる
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以下、原稿です。
0.導入
→今日はクリスマス礼拝です。
救い主、イエス・キリストの誕生をお祝いします。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。
神さまは私たち人類に救い主をプレゼントしてくださいました。
今日はヨハネ福音書3章16節の言葉により
このプレゼントの意味を知りたいと思います。
その上で、救い主、イエス・キリストの誕生をお祝いしましょう。
1.滅びについて
→神が救い主をプレゼントしてくださった理由についてこう書かれています。
「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。
神が救い主を与えてくださったのは、独り子を信じる者が「滅びないで永遠の命を得る」ためであると書かれています。
まず、「滅び」という言葉に注目します。
この滅びという言葉は、ヨハネ福音書10章28節にも出てきます。
読んでみます。
ヨハ 10:27~28
わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。
わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。
わたしは彼らに永遠の命を与える。
彼らは決して滅びず、
だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。
→イエスを信じ、イエスの声を聞き分ける人に、イエスは永遠の命を与え、その人は決して滅びないと約束されています。
→3章16節が語る救いとは、この「滅び」からの救いです。
しかしヨハネ福音書は、「滅び」について具体的には語っていません。
でもヨハネ福音書は「裁き」については次のように語っています。
5:28~29
驚いてはならない。
時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、
善を行った者は復活して命を受けるために、
悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
→善を行った人と悪を行った人では、
死後の運命が異なってきます。
これはいわゆる最後の審判のことが語られているように思います。
悪を行った者が裁かれることは語られていますが、
裁かれた結果どうなるのかは語られていません。
このことは私たちに対して警告になっていると思います。
人生というのは、自分の好きなように生きてよいものではないことを教えています。
聖書は、人がどのように生きたのか、神に裁かれる時が来ると語っています。
→滅びるとはどういうことか、
私たちはそれを正確に知ることはむずかしいようです。
福音書を読むとイエスはたとえの中で「永遠の火に入る」とか「地獄の火」というような言葉を語っています。
→私はイエスが十字架の上で、「わが神、わが神、
なぜわたしをお見捨てになったのですか」と
叫ばれたことを踏まえ、
滅びとは神に見捨てられることと考えています。
滅びとは、私たちは死んだ後、神に見捨てられることと
私は理解しています。
生きている時、私たちは「滅びの恐ろしさ」を知らないかもしれません。
→若い頃、私は誘われ礼拝に通い続けました。
ある日、自分が罪を犯していたことに気づかされたとき、
私は愕然としました。
そして私は、
自分は神の裁きを受けてすぐに死んでも仕方がないと思わされました。
背中がゾクゾクしました。
神に裁かれる、とても怖いことだと思いました。
これがきっかけで私は洗礼を受けました。
→信仰者になって後、自分の心を見るとき、
神よりも自分を大事にする、
隣人よりも自分のことを大事にするという
自己中心という罪深い思いのあることがわかりました。
神を愛し、隣人を愛する、これが神の戒めの中心です。
自分の心にはこの神の戒めを憎む心があるのです。
この戒めを与える神を憎む心があるのです。
だから私は滅びに値する人間だと思っています。
しかしイエス・キリストを信じ、
滅びることなく永遠の命を与えられていると信じて
今日まで歩んできました。
2.独り子をお与えになる神の愛
→神は世を愛されたとあります。
世は、この世界に生きる人々を指しています。
神はこの世に生きる人間を愛されました。
それは独り子をお与えになったほどだ、というのです。
神の愛は、独り子をお与えになるほど大きな愛だと語っています。
神の愛とはどのような愛で、どれほど大きな愛なのでしょうか。
→クリスマスには、子供たちにプレゼンをする親が多いと思います。
子供たちは自分の欲しいものを親にねだります。
そして親はそれをプレゼントします。
子供の喜ぶ顔を見ることは親にとってうれしいものです。
クリスマスプレゼント、これは子供に対する親の愛を示しています。
あなたは私にとって大切な子どもだよとのメッセージを送っています。
→若いカップルがレストランで食事をしています。
食事が終わった後、男性が指輪を差しだし、
結婚を申し込みます。
指輪を贈ることは愛を示しています。
私はあなたを大切にし、あなたと一生を共にしたいです、と
愛のメッセージを送ります。
→神が独り子をお与えになったことは、
世の人々を愛していることを示しています。
しかも独り子を救い主として
お与えになりました。
救い主ということは、これ以上のものがない、
最高のプレゼントということになります。
人類に対する最高のプレゼント、これが救い主です。
どんなにお金を積んでも手に入れることはできません。
どんなに立派な行いを積み重ねたとしても手に入れることはできません。
神はこの救い主という最高のプレゼントを与えるほどに世の人々を愛されたというのです。
神の独り子は誰を救おうとされたのでしょうか。
それは滅ぶべき人間です。
皆さんは、自分は滅ぶべき人間だと思われるでしょうか。
それともそれなりに恥ずかしくない生き方をしており、
天国に迎えられるに値する人間だと思っておられるのでしょうか。
→神は滅びに値するような人間を救いたいと考えました。
神に逆らい、神を認めず、罪を犯す人間はどうしようもない人間だと言って、
見放したり、見捨てたりすることはしないで、
何とか救いたいと考えます。
神を信じながら、言い訳をして神に従わない人間を
見放したり、見捨てたりすることはしないで、
何とか救いたいと考えます。
どんな人間であろうと、たとい滅びに値する人間であろうと
神は救いたいと願うのです。
なぜでしょうか。
神は人間を愛しているからです。
私はあなたを愛していると、神は人類にメッセージを送っています。
→神は、滅びに値する者たちを見放したり、見捨てたりしないで、
救いたいと考えるのです。
独り子を世にお与えになる神は、このような愛の神なのです。
人間の世界では、子供の行状にあきれ果てた親が、
親子の縁を切るということがありますが、
神はそういうことはしないのです。
人間を何としても救おうとする神の愛、
それが独り子をお与えになることにおいて、
明らかにされました。
→旧約聖書創世記の1章で、つまり聖書の初めの初めの部分で、
神が人間を創造されたことが書かれています。
神が人間を創造されるとき、
神は人間をご自身の形に、ご自身に似せて造られたことが書かれています。
その理由は、人間が神と関わって生きることを願われたからです。
神は人間を愛し、人間もまた神を愛して生きることを
神は願われました。
人間が神との交わりに生きることを神は願われました。
この神の思い、これは中途半端なものではありません。
神の方から人間を見放し、見捨てることは決してないほどに
神は人間を絶対的に愛しているのです。
神は滅びに値する者をも救おうとするのです。
神の愛は滅びに値するものをも救う愛です。
人間を決して見捨てない、断固とした意志を示す愛です。
さらに神の愛は憐れみに満ちた愛です。
愛される資格のない人間を愛する恵みに満ちた愛です。
独り子を世に送った神の愛は、憐れみと恵みに満ちた愛です。
人間を愛するという意志を示すたしかな愛です。
3.永遠の命
→神の救いは、滅びに値する者に永遠の命を与えることにあります。
神の愛は、滅ぶべき人間に永遠の命をプレゼントするのです。
独り子を信じる者が永遠の命を得るとあります。
永遠の命とは何でしょうか。
永遠の命を持つ人は、死んでも永遠に生きることができるという意味なのでしょうか。
ヨハネ福音書が語る永遠の命は違うようです。
→まず独り子を信じる人は既に永遠の命を持っているとヨハネは語ります。
既に永遠の命を与えられているのです。
すでに永遠の命に生きているというのです。
どう思いますか。
ヨハネ 3:36
御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。
ヨハネ 6:47
はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。
→では永遠の命を得ると何が起きるのでしょうか。
永遠の命により、御子を信じる人は新しく生まれます。
ヨハネ 3:3
イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」。
→永遠の命を得た人は、神の国を見ることができるはずです。
独り子を信じる人は、永遠の命を与えられ、新たに生まれます。
それゆえ神の国を見る者、つまり神の国に迎えられる者となります。
独り子を信じる人は、新たに生まれ、
神を信じて生きる人に生まれ変わりました。
→私たちは洗礼を受けて信仰に生きることを始めます。
洗礼を受けたとき、自分が新しい人間になったという実感を持つ人は少ないと思います。
新たに生まれたとは、
神との結びつきに生きる者とされたということです。
ちょうど結婚した人たちが互いに結ばれて人生を共に生きるように、
信仰者は神に結ばれて神と共に生きるようにされました。
神との交わりに生きるようにされました。
私たちが礼拝を献げるのも、聖書を読むのも、祈るのも、
神に結ばれて生きていることのしるしです。
これは自分で選んだ道ではなく、
キリストを信じ、永遠の命を与えられているからです。
私たちは神に結ばれて生きるように神に招かれたのです。
この神の招きに応えて私たちは生きています。
それが新たに生まれた者として生きるということです。
→永遠の命を得た人は、新たに生まれ、
神に結ばれて生きる者とされました。
この永遠の命が永遠と呼ばれるのは、
この神と私たちの絆は、永遠であるからです。
信じる者と神との結びつきは終わることがないのです。
私たち人間は生物として死を迎え、
私たちの肉体は消えます。
しかし私たちキリストを信じる者と神との結びつきは終わることがありません。
永遠です。
使徒パウロはローマ書の8章でこう書いています。
ローマ 8:38~39
わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。
→どんなものも神の愛から私たちを引き離すことはできないとあります。
私たちと神との結びつきを引き離すことのできるものは何もありません。
永遠の命を与えられた人は神に結びつけられ、
この神との結びつきが消えることはありません。
言い換えると私たちは、最終的には神のもとに行くことになります。
→永遠の命とは、キリスト者を神に結びつけ、
神に結びつけられた者としてのキリスト者を生かす命
ということができます。
言い換えると、永遠の命をいただいた信仰者は、
神との関わり、神との交わりに生きることになります。
キリスト者は神に愛され、神を愛して生きることとなります。
神との交わりに生きることこそ、
真に生きることと言うことができます。
キリスト者の人生にも色々なことが起きます。
時に神に恨みを言いたくなるようなことさえ起きます。
神に人生が支えられ、神に導かれ、神がおられること、
神の御手の中に生きる平和を知ること、
これに勝って幸いなことはないと信じます。
神との交わりに生きる、それが人間らしい生き方です。
4.大いなるプレゼント
→それではキリスト者が神との交わりに生きるとして、
そもそも、その神とはどのような存在なのでしょうか。
結婚は結婚した者同士が交わりをもって生きることです。
結婚生活をする中で、相手がどんな人なのかが分かっていきます。
その相手を知った上で、お互いに相手を大切にして生活を営むのが結婚生活です。
私たちは説教を聞き、聖書を読む中で、信仰生活を送る中で
神がいかなる方かを知っていきます。
神がいかなる方かを知って、神に信頼して歩みます。
また神の導きに従って歩みます。
→この神がいかなる方かを示してくれるのが、独り子です。
神がご自身のことを知らせようとして独り子を世に送りました。
独り子を与えてくださった、そこに神の愛があります。
独り子は、私たちに対する大いなるプレゼントです。
私たちは、この独り子を通して、神を知ります。
この独り子なしに神を知ることはできません。
ヨハネ1:18
いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
ヨハネ14:6~17
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。
あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。
→神の姿を見ることはできません。
しかし人となった独り子の活動は人の見るところとなりました。
イエスは弟子に言いました。
「私を見た者は、父を見たのだ」。
聖書を通して、イエスを知る人は、父を見たので、と
イエスは私たちに言われると思います。
この独り子を通して私たちは神がいかなる方か知らされます。
この方がいなければ神を知ることができません。
→この独り子のおかげで、滅びから救われ、
永遠の命を与えられました。
神との交わりに生きる信仰を与えられました。
この独り子は神からの大いなるプレゼントです。
このプレゼントに感謝し、神をたたえたいと思います。