クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

10月8日にG教会で説教奉仕をしました。その時の説教の音声と原稿です。


聖書  旧約 詩編100:1〜5
新約 コリント一 3:23
説教 それでも私は大丈夫



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→今日は、説教題を「それでも私は大丈夫」としました。
教会で信仰の学びに用いられるものにハイデルベルク信仰問答があります。
信仰問答なので、問いを出し、それに対する答えを聞くという形で、
信仰を学んでいきます。
このハイデルベルク信仰問答の最初の問いは「生きるにも死ぬにも、
あなたのただ一つの慰めは何ですか」という問いです。


→国語辞書によると「慰め」は、
「一時の悲しみや苦しみをまぎらわせるもの、心を楽しませるもの、
心をなごやかに静めるもの」とあります。
信仰問答が問うのは、気分や感情ではなく、
生きるにも死ぬにも私たちに生きる力を与えるものはは何ですか、との問いかけですね。


→ですから、この文章を読んでいて私は、
「慰め」よりも「それでも私は大丈夫」という言葉の方がピッタリくるような気がしました。
「生きるにも死ぬにも、どんな時も、
<それでも私は大丈夫>と言える唯一の理由があるとすれば、
それは何ですか」。
こういう問いの方が私にはぴったりします。


→生きるにも死ぬにも「それでも私は大丈夫」と言えるのは、
何かただ一つのことがあれば大丈夫なのでしょうか。
それとも、お金や健康や、さらには家族も、
と色々なものがあって初めて私は大丈夫と言えるのでしょうか。
ハイデルベルク信仰問答だけでなく聖書も、
ただ一つのことがあれば、
「それでも私は大丈夫」と言えると語っていると私は信じます。

ハイデルベルク信仰問答は、答えとして、
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、
生きるにも死ぬにも、
わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです」と述べています。
私が自分自身のものではなく、イエス・キリストのものである、
このことが分かるとき、
何が起きても「それでも私は大丈夫と言える」というのです。

→今日読んでいただいた詩編100編の3節にこう書かれていました。
「主はわたしたちを造られた。
わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」。
ここではわたしたちは主のもの、とあります。
今日読んでいただいたコリント書には「あなたがたはキリストのもの」とあります。
つまり、わたしたちは神さまのものだ、と聖書は語ります。


→まず、
この「神さまのもの」ということが何を意味しているのかを考えます。
女性の方に聞いてみたいと思うのですが、
もしあなたの夫が、
「おまえはわたしのものだ」と言ったらどう思われるでしょうか。
自分が夫の所有物であると言われたような気がして、
いやな気がする方がおられるのではないでしょうか。
なぜ嫌かと言えば、自分が夫に支配されるような気がするからです。
奴隷制のもとでは、奴隷は主人のもの、主人の所有物。
主人の支配下にあり、主人に絶対服従し、
自分の自由などありませんでした。


→では神さまのもの、キリストのものとは、どういうことでしょうか。
それは「帰属性」を示します。
所属を意味します。
以前、会社人間という言葉が使われていました。
会社人間と呼ばれる人は、会社がすべて、会社がその人の生き場所、生きる拠り所となっています。
彼は会社に帰属しているのです。


詩編100編の3節には、私たちは主の民とあります。
さらに
「私たちは主のもの、主に養われる羊の群れ」とあります。
主なる神は羊飼いであり、
私たちは羊飼いに養われる羊の群れだというのです。
羊は羊飼いのものです。
でも羊飼いは羊を自分のものとして支配し、
好きなように扱うことはしません。
むしろ羊を養い、羊を生かします。


→私たちは主のもの、神さまのものと言うとき、
私たちは羊飼いである主なる神の御手の中にあって生きることを意味します。
神さまとの関係なしには歩まないのです。
神さまに信頼して生きるのです。
神さまは羊である私の羊飼いなのです。


→もし私たちが信仰を持たなければどうなるのでしょうか。
私たちは自分の力で生きていくことになります。
勿論、他の人の力も頼ります。
もし私たちが自分の力で生きていく場合、
何があっても「それでも私は大丈夫」と言えるためには、
色んなものが必要になります。
健康を維持することが必要、老後の備えが必要、
生きがいが必要など色々なものが必要となります。お金も必要、
家族や友人も必要。
「それでも私は大丈夫」というのはむずかしく思います。
何か起きれば途方に暮れてしまう、
それが人間の現実のように思います。


→私たちは神さまのもの、
神さまに属するものであることを認めるなら、
何が起きても「それでも私は大丈夫」と言えると私は信じます。
聖書は、
「生きるにも死ぬにも」「わたしは大丈夫」と言えますよと私たちにメッセージを語っていると私は信じます。


アイデンティティーという言葉があります。
自分は何者であるか、ということを意味します。
すると私たちのアイデンティティーは、神さまのものである、
神さまに属する存在である、となります。
私たちは自分のアイデンティティーにしっかり立ち続けることによって、
「わたしは大丈夫」と言って、おだやかな心、
安定した気持ちで生きることができます。


→私たちは神さまのものとの考えを貫くなら、
何があっても「それでもわたしは大丈夫」と言えると、私は皆さんにお伝えしたいです。
もう少し深く考えてみたいと思います。

→まず「生きるにも、わたしは大丈夫と言えるかです」です。
私たちが生きていくとき、思いがけないことが起きます。
最近では豪雨により災害が起き、
洪水で家が流されてしまうという出来事が起きています。
自分の家が流されたら、明日からどう生きていったらよいのか、
打ちのめされる気持ちになります。途方に暮れます。


→あるいは、
突然会社が倒産して職を失い路頭に迷うというようなことも起きます。
あるいは子どもが不登校になってどうしたらいいのか分からないとか、
自分自身が心の病になって、
どう生きていっていいか分からないとか、人生色んな事が起きます。
絶望するようなことも起きます。


旧約聖書にある詩編23編は、羊飼いである神と、
羊飼いに養われる私たち羊の関係がどのようなものであるかを語っています。
「主は羊飼い、
わたしには何も欠けることがない」と羊である信仰者が告白します。
続けて、「主はわたしを青草の原に休ませ、
憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」とあります。
わたしには不足するものはないし、
わたしの心はいつも新たにされ、励まされていると告白しています。
これは私たちの生活がいつも守られていて問題がない、ということではないと思います。
私たちの生活では、色々な問題があります。
それでも、わたしの心はいつも新たにされ、励まされていると告白しています。


→「死の陰の谷を行くときも、
わたしは災いを恐れない」と告白しています。
災いが来るにしても、恐れないとの告白、大胆な告白です。
さらに羊は野獣に襲われるかもしれません。
そのような時、羊飼いは命を賭けて羊を守ります。
このことは詩編23編には書かれていません。
ヨハネ福音書で主イエスは、
「わたしはよい羊飼いである」と語り、
「よい羊飼いは羊のために命を捨てる」と宣言されます。
主イエス自身、よい羊飼いです。
羊は羊飼いの守りの中におかれているんです。
私の身に何が起きようと神さまが何とかしてくださるとの信仰が、
平安と喜び、力を与えてくれるのです。


→さらに詩編23編の最後には、「命のある限り、
恵みと慈しみはいつもわたしを追う」とあります。
神さまの恵みと慈しみは、いつも私を追いかけてくるというのです。
神さまの恵みと慈しみはいつもわたしと共にあるとの告白です。


→このように見てくると詩編23編は、
「わたしは大丈夫」と告白できますと語りかけているように思います。
羊飼いを持つなら、わたしは大丈夫、
と告白できると詩篇23編を通して、神さまは約束しておられます。


→また皆さんが心の支えとしている聖書の言葉がありますね。
コリント一10:13です。

「あなたがたを襲った試練で、
人間として耐えられないようなものはなかったはずです。
神は真実な方です。
あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、
試練と共に、それに耐えられるように、
逃れる道をも備えていてくださいます」。

試練の中にあっても逃れの道を神さまは用意してくださるとの約束があります。
そしてとっておきの手段は祈りです。
主の御名を呼び、助けを求めることができます。
詩編を読めば、苦境からの救いを求めて詩人は神さまに向かって叫んでいます。
それ故、神さまに養われる羊として生きるなら、
「それでも私は大丈夫」と言える、聖書はそう伝えています。

→次は「死ぬにも、わたしは大丈夫」と言えるのか、です。
いつの日か、人は自分が死ぬべき存在であることを知るようになります。
するとある人々は死の恐怖を感じます。
自分の存在が消える、そこにとてつもない恐怖を感じるのです。
死の恐怖を感じた人は、この恐れからの救いを求めたくなります。
私の幼い頃、祖母が亡くなりました。
幼い私は、自分もまた死ぬものであることを知りました。
自分は死んだらどうなるのか、と考え、死の恐怖を感じました。
このことは、私にとっては信仰を求めるきっかけになりました。
死を前にして死の恐怖におののくというのは絶望に近いものがあります。


→死の恐怖については、新約聖書ヘブライ人への手紙に、
死の恐怖の奴隷となった人をキリストは、
その恐れから解放したと書かれています。
主イエスご自身十字架の上で、「わが神わが神、何故私をお見捨てになるのですか」と祈られ、死の恐怖を味わわれました。
死の恐怖の正体、それは神さまに見捨てられることにあります。
私たちより先に、主イエスはすでに、神に見捨てられるという死の恐怖を味わっておられるのです。
そして主イエスは三日目に復活をされました。
死に勝利されました。
そして私たちも復活を約束されています。


→神さまは主イエスを信じる人に対して、永遠の命、
神の国を約束しています。
使徒パウロは、
「正しくない者が神の国を受け継げないことを知らないのですか」と語ります。
またすべての人は神の前に罪を犯しており、
正しい人は一人もいないとパウロは教えています。
私たちは皆、神の目に罪を犯してきました。
ですから、
私たちは誰一人として神の国に迎えられる資格を持ってはいません。
神の国に迎えられる資格を持つ人は、一人もいません。
しかし主イエスは、十字架の死を遂げ、
罪の贖いをしてくださいました。
そして主イエスを信じる者は罪が赦され、
神の前に正しい者とみなされ、永遠の命を与えられ、
神の国に迎えられるとの約束を与えられています。
この救いの約束を私たちは与えられています。


→私たちは神さまのものです。
神さまは私たちの羊飼いです。
文字通りの羊飼いは羊が死ねば、
その死骸を適切に処理するでしょう。
羊飼いなる神さまはどうされるでしょうか。
私たちが死んでも、
神さまは私たちの羊飼いをやめることはありません。
羊飼いと羊の関係、神さまと私たちの関係は、
断たれることはありません。


詩編48編にある言葉を紹介します。

「後の世に語り伝えよ。
この神は世々限りなく私たちの神。
死を越えてわたしたちを導いて行かれる、と」。

神さまと私たちの関係は、私たちの死をもって終わることはないとの神さまの約束がここにあります。


→死に関わるもう一つの問題があります。
病気などで亡くなる場合、痛みとか、だるさとか、熱だとか、
病気からくる苦しみがあるかもしれません。
多くの人は死そのものより、この苦しむことを恐れているようです。
医学的な処置を医師はしてくれると思いますが、
それでも苦しみがあるかもしれません。
この時でも、「それでもわたしは大丈夫」と言えるのでしょうか。
言えると私は信じます。
心の中で泣きわめいて「神さま、何とかして」と叫びます。
祈り続けます。
祈りに応えて神さまは、必ず、何かをしてくださいます。
そして平安を与えてくださいます。


→さらに死ぬということは、この世からいなくなることですから、
死ぬ人にとってはさびしさがあります。
また自分が死んだ後、
残された家族の先行きが心配だということもあるかもしれません。
残された家族のことは神様にゆだねます。
この世を去ることに伴う寂しさに対しては、
神の国を待ち望む思いを大きくすることが大切だと思います。

→そして最後に残された問題は、
私たちが神様の約束を信じて歩み通すことができるか、
ということです。
私たちは約束を疑ったり、信じ切れなくなることがあります。
聖書は神さまは真実な方で、ご自分の約束を必ず守る方であると告げています。
神を信じるとは、神の約束を信じる事です。神を信用することです。


神の国が実現するとか、永遠の命とか、それがどういうものか、
私たちにはよく分からないところがあります。
また主イエスはもう一度この世界においでになり、
最後の審判を行うとおっしゃられました。
最後の審判、キリストの再臨、これらは私たちの常識、
私たちの思いを越えた事柄であり、
にわかには信じがたいという面があります。
信じがたいので、神さまの約束が信じ切れないとの悩みがあります。
すると「それでもわたしは大丈夫」と言えなくなるという問題が生じます。


→創世記12章にアブラハムという人物が登場します。
彼は信仰の父と呼ばれました。
彼は神様から約束を与えられましたが、それは、
人間の思いを遙かに超える約束で、
にわかには信じることができない内容でした。
神さまは言うのです。
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、
あなたの名を高める」。
アブラハムが生きている間には実現しない約束です。
そんな約束をアブラハムは本気で信じ、
新しい人生に踏み出しました。
キリストの再臨、最後の審判神の国の実現、
これらも私たちが生きているときには実現しない約束です。
自分が生きている間に実現しない約束をアブラハムは信じ、
彼は信仰の歩みを始めました。
アブラハムは私たちにとって、模範とすべき信仰者です。
アブラハムは自分の生涯の間には実現しない約束を信じて信仰の人生を始めました。
私たちは、自分の生きている間には実現しない神の約束を希望として生涯を閉じることになります。
私たちは希望を抱いて生涯を終えるのです。


→神さまは真実な方なので約束を実現されます。
私たちは、それは本当なのか、信じ切れないという思いを抱きます。
この問題の解決は祈りにあります。

「信じます。
信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)。

信仰は賜物です。神さまが与えてくださいます。
神さまは、必ず、信じることができるようにしてくださいます。
神さまがわたしの羊飼いなら、生きるにも死ぬにも、羊である私は大丈夫です。


祈り