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隠退牧師 holala によるブログ

終末の到来

 今日はマルコ福音書13章28~31節を読みました。

マルコ 13:28~31
「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい。はっきり言っておく。これらのことがみな起こるまでは、この時代は決して滅びない。天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」

 主イエスはいちじくの木から教えを学ぶようにと語られました。いちじくの葉が伸びれば夏が近づいたことが分かります。同じようにイエスが語った出来事、たとえば苦難の到来を経験すれば、主イエスが雲に乗っておいでになるのは間近であることを知るようにとの主イエスの教えです。

 主イエスの時代から、二千年が過ぎてもまだ終末は来ていません。主イエスが語った終末の教えをどう受けとめたらいいのでしょうか。主イエスの教えは間違っていたのでしょうか。それともなお正しいとして信じたらよいのでしょうか。

 歴史の中で、教会は終末の到来を信じてきました。使徒信条にも、「かしこよりきたりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」とあります。

 大切なことは、自分が信じられるから信じる、信じられないから信じないと、自分を基準に判断することの妥当性です。自分が信じられないことの中には、信じない方がよいこともあります。人を惑わす宗教があり、それらは信じない方が正解です。大切なことは、信じる信じないの根拠、基準をどこに置くかではないかと考えます。

 主イエスは語ります。「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。「わたしの言葉は決して滅びない」、これは重い言葉です。主イエスの言葉こそ、信仰の基準の言葉であることを示しているように思います。主イエスが語ることを信じたい、私はそう考えます。まずは主イエスの言葉が真理であると考えて進みたいと思いました。

 なぜ終末が遅れているのか。これは新約聖書の中ですでに問題とされています。

ペトロ二 3:8~10
愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです。ある人たちは、遅いと考えているようですが、主は約束の実現を遅らせておられるのではありません。そうではなく、一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるのです。主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に熔け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまいます。

 終末が遅れているのは、ひとりも滅びないでみなが悔い改めるのを神が待っているからとあります。時の流れの中で、次々と人が生まれ、死んでいきます。地球上に主イエスを信じる人が満ちることが果たしてあるのでしょうか。

 目の前にいちじくの木はなくても、時代の流れ、歴史があります。現代も人間の罪が満ちて世界に混乱を招いています。戦争が起きていて、世界の平和は遠のいています。そしてさまざまな分断が顕著になってきています。主イエスは、敵意という隔ての中垣を壊すためにおいでになったのに、分断による隔ての中垣が、あちこちに、そして高く厚い壁が築かれている現代です。

 神による終末が来なければ、人類は自ら滅亡を招くのではないか。そんなことも感じさせる現代です。私は終末が来て、神さまがきちっと決着をつけてくださることを願います。

野菊(ノコンギク)