2024-01-01から1年間の記事一覧
一日を生きる、それは消化試合のようなものと感じる心があります。そのような思いで今朝は目覚めました。
牧師がいない信仰者だけの礼拝。そこにある恵みを想像します
人を裁くな。イエスの教えです。私たちの心には自分を誇りたいとの重いがあるのでしょうか。
オレオレ詐欺みたいな詐欺に自分は引っかからないと自認している人がだまされるという話しを聞きます。
死を越える希望を「教え」として受けとめるのではなく、 「神の約束」として受けとめるなら、うれしい希望となるのではないでしょうか。
歳をとり、残された時間が少なくなっていることを思います。それで詩編を通読し、昔の信仰者の気持ちに触れたいと思いました。今日は詩編の第一編を読みました。
礼拝説教奉仕に行き、教会の存続について考えさせられる現実があります。
神の国と神の義を求めなさい。有名なイエスの言葉です。でもどういう意味なのでしょうか。
私は近年、この世界が何と罪に満ちあふれていることかと感じます。あるいは罪がいかに人間を支配しているのかと思い知らされます。
説教奉仕で、いくつかの教会に生きますが、礼拝出席者が減少する中で、教会の存続という問題に直面します
キリストに見倣う歩みをどのように実践するのか、私の場合の紹介。
キリストに見倣い、キリストに似姿を目指す、信仰者の目指す生き方です。
神の御子は、私たちが何を目指して生きるのか、その模範を示すという意味で、私たちに必要な存在です。
ローマの信徒への手紙 1章1~7節 説教 神の御子に関する福音 5月12日礼拝説教の紹介です。
人は洗礼を受け、キリストに結ばれます。そして新しい命に生きる者とされます。そして神の戒めを守ることができる人となります。
御子イエスの十字架の死。このしがなければ、人間の救いはありません。御子の死こそが人を救います。
老いを生きる中で、聖書の言葉や讃美歌が心に新鮮に響くことがあります。今回葬儀に参加し、讃美歌が心に響きました。
人間にとって救いとは、神を愛する人間となり、自分を愛するように隣人を愛する人間となることです。
神は世の初め、人間を造られるとき、人間が罪を犯すことをご存じでした。イスラエルの歴史を通して人間の罪が明らかになってから救い主を送るというのが神の計画でした。
先日、先輩牧師の訃報を聞きました。ふと思いが与えられ、聖書を開きました。
新約聖書を読むと、信仰生活にとって御子の存在は大きなものがあります。
素朴な質問をするなら、神の子ってなに? 人間を救うのはなぜ神の子? 救い主は、神の御子だというのです。どういうことなのかと思案します。
目が遮られるとイエスのことが分からなくなり、目が開くと聖書のことが分かるようになります。目を開くのはイエスです。
主を賛美することを喜ぶ、それは私のうちに主イエスが生きておられるからではないかと考えるこの頃です。
疑う心に対する対処法。私の場合。信仰者としてのアイデンティティー。聖書の真理性。
この世を去ってキリストと共にいたいと熱望するパウロ。キリストが私のうちに生きておられるから私は願いを共有できる。
「約束された福音」と出しての説教。聖書はロマ書1章1~7節。
自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。
信仰者としての自分の歩みを思うとき、自分の内にイエスがおられると自覚することは大切なことと考えるようになりました。
私が神の言葉によって生きているとは、主イエスが私の内におられ、私の内に生きておられるということです。