クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

2024-01-01から1年間の記事一覧

義兄の葬儀に参加して

今日は、妻の長兄の葬儀に名古屋まで行ってきました。明日は我が身か。

信じる心と疑う心(2)恵みの高き嶺へ

「恵みの高き嶺(ね)」という聖歌を youtube で聞いたことがきっかけでした。

信じる心と疑う心(1)

イエスの弟子トマスのことを誤解していたことに気づきました。私はトマスと違って信じる心と疑う心が同居しています。

受難節黙想 23:44~49 私の霊を御手にゆだねます

死に際し、自分の霊を神にゆだねるのは、すべてのクリスチャンに共通の思い、願いであると思います。イエスに倣い自分の霊を神にゆだねて死にます。

複雑な心

朝、テレビを見ていたら、大谷翔平選手の会見が開かれました。大谷選手の心を思います。

受難節黙想 ルカ 23:39~43 憐れみに富むイエス

イエスと共に十字架につけられた犯罪人。二人のイエスに対する態度は対照的。

受難節黙想 ルカ 23:32~43 イエスの従順

死に至るまで、十字架の死に至るまで、神に従順に生きるイエスを見る。十字架の死に至るまで、そこには人々からの侮辱を受けるという状況もあるのにイエスはなお神に従順に歩まれた。

受難節黙想 ルカ 22:66~71 証しするイエス

イエスは自分を死に追いやる最高法院で、堂々と証しをします。

平和の大切さ

若きらが 親に先立ち 去(い)ぬる世を 幾世し積まば 国は栄えむ 心に響きます。

礼拝説教 古い自分は十字架に

礼拝説教 古い自分は十字架に 原稿と録音です。

受難節黙想 ルカ 22:39~46 葛藤の祈り

イエスは苦しみもだえて祈られた。その姿に思いを馳せる。

受難節黙想 ルカ 22:14~23 新しい契約

主の晩餐において、キリストは新しい契約をもたらす方であると語られました。信仰者が律法を満たすようになるという約束。

新聞で見た言葉

新聞の記事で見た、つらい中にある人たちの言葉。

神のご支配を思う

13年前の大震災を思い、最近の出来事をも思い、時に複雑な思いに導かれます。

わが行くみち いついかに

今年の元旦も能登半島地震。自分の歩む道が突然閉ざされる、そんな不安に追い込まれる不安があります。

受難節黙想 ルカ 22:14~23 主の思い

主イエスは「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいとわたしは切に願っていた」と弟子たちに語りました。主の気持ちは何だったのか。

礼拝説教 キリストに結ばれて

キリスト者は洗礼を受けてキリストに結ばれ、罪赦され、罪から解放され、新しい命に生きる者とされました。

滅多にない出来事

家族が神さまの用いられました。4つの教会で説教奉仕をしました。

公開講座に参加して

先日の日曜日礼拝後、奈良高畑教会では「社会生活を考える公開講座」が開かれました。テーマは『戦争の時代にキリスト者として生きる』。

老いの影

神学校の同窓会から訃報のメールが届きます。訃報が届く中で人の死に慣れていき、自分の死を受け入れる心境になります。

受難節黙想 隠された受難の意味

ルカ福音書が伝えるイエスの受難予告について、その意味はは弟子たちに理解できないように隠されていたとあります。

受難節黙想 ルカ 9:21~22 弟子たちへの受難予告

主イエスは受難の予告を弟子たちにしました。長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺されるというのです。

聖書が分かるうれしさ(つづき)

自分はみじめだと告白するのは誰なのかという追求は、底なし沼に踏み込むようなものだと思います。沼から出ることができなくなり、さらにはキリストによる救いが何であるかが見えなくなるように思います。

聖書が分かるうれしさ

理解するのがむずかしい聖書の箇所があります。そういう箇所は注解書を見ても説明がなかったりして疑問が解決しません。だからむずかしい箇所が分かるということはとてもうれしいです。

受難節黙想(2)フィリピ 2:1~11

キリストの父なる神への愛と神への忠実、キリストの人間への愛の先にキリストの苦難があります

受難節黙想(1)フィリピ 2:1~11

キリストは御子でありつつ、人となり、十字架の死に至るまで、神に従順に歩まれました。キリストの苦悩を思う受難節です。

イエスの問い

私は今、死を越える希望を語る聖句の一覧表を作っています。これらの聖句を味わいたいからです。

マストとウォントの間で

老いの重荷は主イエスに預けて、マストとウォントの間を生きて充実感を得たいです。

そうだったのか、聖霊のバプテスマ(4/4)

洗礼を受けキリストに結ばれた者は、「神の子なのです」とあります。そこでまず、自分が神の子とされたと考え(信じ)喜びます。

そうだったのか、聖霊のバプテスマ(3)

使徒パウロはロマ書6章で次のように語っています。パウロが語る洗礼、それが聖霊のバプテスマだと私は理解します。