クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

信徒だけの礼拝の可能性

マタイ 18:20
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。

 礼拝出席者が数名の教会で、牧師が亡くなったら教会はどうしたらいいのでしょうか。教会はどうなるのでしょうか。経済的に次の牧師を招くことは困難です。牧師なしで礼拝を守り続けることができるのでしょうか。このような事態に直面している教会がいくつもあると思います。

 そこでふと想像します。日曜日に信仰者が礼拝のために教会に集います。いつもの礼拝順序に従って礼拝をします。説教の時、説教者がいませんから説教を聞くことはできません。そこで説教箇所として示された聖書を共に読み、分かち合うのです。どんな感想をもったのか、神の語りかけとして聞くことができるとするなら、何を聞いたのか、分かち合うのです。心を開いて正直に分かち合うのです。牧師という説教の専門家による聖書の説き明かしはなされません。しかし信仰者として聖書をどう読むのか、何を感じたのか、何を思ったのか、何を教えられたのか、どんな励ましを受けたのか、など共に語り合ったらどうなるのか、と思うのです。

 イエスが天に上げられた後、使徒たちが福音を宣べ伝えました。各地域に教会が生まれました。教会といっても教会堂があるわけではなく、信仰者の家に集まって礼拝をしたと思います。使徒たちは町から町へと福音を宣べ伝えますから、礼拝の場に使徒がいるとは限りません。私たちには聖書がありますが、教会が誕生した初期の時代には聖書はありません。どのようにして礼拝が献げられたのかと思います。二人三人集まるところにはイエスがおられるとの信仰によって人々は集まっていました。

使徒言行録 2:42
彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

 使徒から教えられた教えを共に学び、交わりをもち祈ることに熱心だったとあります。

コロサイ 3:16
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。

 ここにも信仰者の交わりが描かれています。必ずしも使徒のような指導者がいたとは限りません。信仰者が共に集い、信仰者の交わりをしたのです。

 牧師がいない礼拝。数名だけの信仰者だけの礼拝。キリストの臨在を信じて、信仰者の交わりをする、これもまた恵みの集いなのではないかと想像します。この状態をいつまでも続けることが可能かと言われれば、限界があると思います。でも信徒だけの交わりの恵みもあるのではないかと想像します。この交わりの恵みが伝道の力になったと想像します。

サラサウツギ 大和民俗公園