4月9日のイースタ礼拝は、説教奉仕の機会が与えられました。コリント一15章12~19節で説教しました。コリント教会にはキリストの復活を信じていない人がいたようです。パウロはキリストの復活がなかったら、どうなるのかを語ります。
コリント一 15:14
そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。コリント一 15:17
そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。
説教で取り上げたのは、特に17節です。キリストが復活しなかったのなら、あなた方は今もなお罪の中にあるとパウロは語ります。「罪の中にある」とはどういうことでしょうか。説教の中で私は、「それは、昨日も今日もそして明日も罪を犯して生きることです」と語りました。つまり罪の支配下にあり、罪の奴隷であるということです、と語りました。
キリストが復活したのなら、私たちは「罪の中にはいない」ことになります。つまり私たちは罪の支配から脱出したことになります。
キリスト者は罪の支配から自由にされた人です。このことを伝えることは説教者としての私のテーマでした。そして今でもテーマです。そして今新しいテーマが与えられました。それはイエス・キリストを信じる者は義とされていることです。
神はイエス・キリストを信じる者を義とされます。イエス・キリストを信じる私たちは神と和解し、神の子とされます。このことは、たとい私たちが罪を犯したとしても取り消されることはありません。私たちは神と和解し、神との交わりに生きる者とされました。だからたとい罪を犯しても、なお神の子として神との交わりに生きていきます。キリスト者として成長していくとき、失敗することはつきものです。失敗から学び成長します。罪を犯すことは失敗です。神は失敗を乗り越えるように私たちを励ましてくださると信じています。
「救いを考える」は、今回で終了。