クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.9.7)
聖書 ペトロ二1:20〜21 神の霊感によりて成り

 今、教団信仰告白の解説という形での説教を始めています。今日から何回か、聖書をテーマに話をします。今日は聖書の著者は神様、聖書は神の言葉である、ということを話します。


1.聖書の著者は神様です 


 考えてみると、聖書が与えられている、これはとんでもない恵みだと思うのです。聖書そのものが存在することが不思議だし、神様の恵みだと思うのです。聖書は1000年以上の長い時間の中で、何人もの人が書いたものがまとめられたものです。それらが一貫して、創造主にして救い主である神を語っています。いつの時代でも、そして今でも、多くの人々に希望、光を与えています。


 今日は、

「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」

を取り上げます。この聖書は、大きく分けると二つの部分からなっています。前半は旧約聖書、後半が新約聖書。この二つ合わせて聖書と呼びます。


 「神の霊感によりて成り」とは、

この聖書が神の霊に導かれて書かれたものである

との意味です。「神の霊に導かれて書かれた」という表現は、聖書の言葉に基づいています。

「人々が聖霊に導かれて神からの言葉を語ったものだからです」(ペトロ二1:21)。

「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」(テモテ二3:16)。

 旧約聖書はヘブル語で、新約聖書は、ギリシャ語で書かれています。事実として聖書は人間が書いたものです。聖書は全部で66の書物の集まりになっています。書いた人も、書かれた場所も、時代も異なる66の書物が一つにまとめられています。人間が書いたものですが、人々が聖霊に導かれて書いたものです、と聖書自らが語っているわけです。

 聖霊とは、聖なる霊、つまり神の霊です。聖書を書いた人のことを聖書記者と呼びます。聖霊は、どのように聖書記者を導いたのでしょうか。働きかけたのでしょうか。こんな文章が聖書にあります。

ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムの第四年に、次の言葉が主からエレミヤに臨んだ。 「巻物を取り、わたしがヨシヤの時代から今日に至るまで、イスラエルとユダ、および諸国について、あなたに語ってきた言葉を残らず書き記しなさい。エレミヤはネリヤの子バルクを呼び寄せた。バルクはエレミヤの口述に従って、主が語られた言葉をすべて巻物に書き記した」(エレミヤ36:1〜4)。

 それまでエレミヤは神の声を聞いてきました。そして今まで聞いた神の言葉を弟子のバルクに口述筆記させたことがわかります。


 残念ながら聖霊がどのように聖書記者を導いたのかは、聖書には書かれていません。二つの代表的な考え方を紹介します。


 一つは逐語霊感説です。


 書くべきことを神が一つ一つ教え、それを聖書記者が書いたという説です。神様が話されたことをそのまま聖書記者が書いたという理解です。


 もう一つの説は、神様が聖書記者の信仰と人格を用い、彼に書くように促したというものです。聖書記者は信仰生活の中で考え、伝えたいと思うことを自分の表現で書くのです。それと同時に聖書記者が実際に書く時、その思い、考えに、何らかの形で聖霊が働きかけたと理解します。聖書記者は、自分の信仰体験に基づき、書いたのですが、そこには神の導き、聖霊の導きもあったという理解です。


 たとえば使徒パウロの手紙を見ればよくわかります。パウロは教会宛に、その教会がもつ問題点に対して解決や指示を与える文章を書きました。その手紙にはパウロの考えがはっきりと書かれています。書くべき言葉を神がいちいち指図したとは思えません。パウロは教会のことを考え、祈りながら手紙を書いたのです。そうして書かれた手紙は聖書の中に組み入れられました。パウロが書いた手紙ですが、それは聖霊に導かれて書かれたものと聖書は告げているのです。


 二つの考え、いずれも神様が著者であると考えていることは共通しています。聖書の著者は神様なのです。日本基督教団信仰告白は、聖書の著者は神様であると信じると告白するわけです。


2.聖書に書かれた言葉に神聖さが宿る 


 次に生まれる問いがあります。聖書は神の言葉なのかどうか、という問いです。著者が神様ですから、聖書は「神の言葉です」。でも疑問が生まれます。


 ある人が言います。「聖書が本当に神の言葉なら、即ち、神の言葉としての輝き、神聖さ、力があるなら、聖書を読んだ人は皆信仰を持つはずじゃないの?神の言葉を読んだのに信仰を持たないということがあるのかしら?素晴らしい輝きをもつ宝石を見れば、誰だって美しいと感じるでしょう。神の言葉を読んだなら、信仰を持つのが自然じゃないの」。


 しかし人が聖書を読んだら必ず信仰を持つとは限りません。そこで別な人がこう言います。「聖書を読み、神との出会いが起きる時、聖書は神の言葉になるんだ。神との出会いがなければ、聖書はただの書物。聖書は神の言葉ではない。聖書は神の言葉となるんだ」。


 
 聖書は神の言葉なのか、神の言葉になるのか。聖書には、この両面があります。聖書は神の言葉です。ただの書物ではありません。神の語りかけそのものです。聖書には神の言葉としての輝き、神聖さ、力が宿っています。しかし人間はアダム以来堕落しているので、神の言葉の輝きを見ることができないのです。神の導きがないと、それを神の言葉と受けとめることができないのです。そこで聖霊によって目が開かれる時、聖書が神の言葉であるとわかり、神との出会いが起きるのです。


 今年の教会の主題聖句は、

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」

です。私たちが日々、聖書に親しみ、神の口から出る言葉によって生きようとするのは、聖書が神の言葉であるからです。聖書には神の言葉としての輝き、神聖さ、力が宿っています。


3.聖書は神の言葉である 

「旧新約聖書は神の霊感によりて成り」

は、聖書が神の言葉であると告げています。では聖書を神の言葉と信じ受けとめていくとどうなるのでしょうか。神の言葉は、人間の言葉ではありません。神ご自身の言葉です。その神がどんな神かが重要です。悪を見張り裁きを与えるだけの厳しい神だったら、いくら神の言葉とはいえ、読みたいとは思わないでしょう。しかし聖書が伝える神は、恵みの神、愛の神、憐れみ豊かな神です。しかも人間が正しく生きることを望まれる神でもあります。そこで私たちはこの神に信頼を置きます。私たちは聖書を神の言葉と喜んで受け入れるのです。


 聖書を神の言葉と信じて、導きを祈りつつ聖書を読むのです。

  • すると聖書が神の言葉であり、真理であるとの確信が芽生え、育ちます。
  • 考え方において、常識とか、人々の考え方よりも、自分の経験よりも、自分の知恵よりも、聖書の言葉を優先するようになります。
  • 「聖書はそう言うけれども」ではなく、「聖書がそう言うから」と考え方が変わります。
  • 聖書が真理であるとの信頼が生まれ、信頼に基づく行動が生まれます。
  • 聖書に基づき、大胆な行動が生まれるようになります。
  • 神の導きを確信するようになるとますます聖書が真理であるという確信が強まります。


 私たちは聖書が神の言葉であると信じ、神の言葉に敬意を払い、これに信頼を寄せ、従うようにします。すると、聖書は神の言葉としての姿を現してくれ、聖書が神の言葉であるとの確信が増し加えられます。


 聖書は神の言葉です。人間の言葉ではありません。このような聖書が私たちに与えられているとは、とんでもない恵みです。このような真理に基づいて生きることができるのは、とてつもない幸いです。神の言葉が与えられている、言葉では言い表せないほどの感謝です。


 聖書を神の言葉と信じ、信頼していく時、私たちは本当に生まれ変わります。

「 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(ペトロ?1:23)。

神の言葉としての聖書のすばらしさを知らないのは、はっきり言って、と大きな損失です。


 聖書が聖霊の導きによって書かれたものであると信じるとは、

  • 聖書の著者を神と信じることです。
  • 聖書には神の言葉としての輝き、神聖さ、力があると信じることです。
  • 聖書の言葉を神の言葉とし、信頼を寄せて生きることです。
  • 聖書が与えられていることを恵みと感謝することです。
  • それ故に、聖書に親しむことです。