クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.6.6)
聖書 ルカ23:44〜49 死に直面して生の素晴らしさを信じている


 皆さんはご自分の死をどんな思いで迎えられるのでしょうか。今日は生き方がテーマです。これまで信仰の成長というテーマで10のポイントについて順に語っていますが、今日は8番目のポイントです。


 この10のポイントは私が考えたものではありません。実はFEBCというラジオのキリスト教放送で「福音に生きる」と題してカトリックの幸田和生神父が話された内容から借用したものです。その放送の中で、この10のポイントを話されていました。この10のポイントを私なりに福音として受けとめ、語りたいと思い、取り上げています。


 この10のポイントは、信仰を持つことの素晴らしさを教えてくれます。それ故、自分の信仰を顧みるのによいものだと思います。目をつぶってまっすぐに歩こうとしてもいつの間にか曲がってしまいます。わたしたちの信仰の歩みもいつのまにか曲がってしまいがちです。そこでこの10のポイントについて自分はどうなのかを考えることは有益なことだと思っています。私自身の信仰の歩みを振り返る時、10のポイントのいくつかは通過してきたことを思うと同時に、今まさにそこにいると思えるものもあります。皆さんはどうでしょうか。今回は第8番目のポイントです。

「死に直面してもなお、生のすばらしさを信じている。この世のものを愛(いと)おしみ、かつこの世のものに縛られないと感じている」。


 このポイントは二つに分かれます。一つは死に直面しても生の素晴らしさを信じている。もう一つは、この世のものを愛おしみ、かつこの世のものに縛られない、です。


 たとえば、ここに若い父親がいます。彼には妻と幼い子供がいます。彼は突然病気になり、治る見込みがないことが判明します。彼にとって第8番目のポイントはどうでしょうか。「死に直面して生の素晴らしさを信じている」。これはとんでもないことですね。妻と幼い子供を残して死ななければならないのです。運命は彼に残酷な人生を与えているように思えます。


 また「家族を愛しているが、家族に縛られないと感じている」。これもとんでもないことです。幼い子を育てる責任があります。その責任が果たせないのは親として、心残りというか、無念なことです。子供のことに心が縛られないで自分の死を受けとめることができるなんて、到底できません。この若い父親は死んでも死にきれない状態です。この第8のポイントは、この若い父親には残酷に見えます。しかしこのポイントは大きな示唆を与えると信じます。


 人は自分の死をどう受け入れていくのか。それは一人一人の課題です。

  • ある人は、自分が生きた証を立てたいと思います。何らかの業績を残したいと願って生きるわけです。
  • ある人は、楽しい思い出を沢山つくろうとするかもしれません。
  • ある人はやりたいことを存分にやろうと考えます。
  • 人それぞれに、自分の人生を十分に生きれば死を受け入れることができる、と考え努力しているのです。


 書店に行くと、老いをどのように生きるのか、といった類の本が沢山並んでいます。老いの時期を幸せに有意義にこんな風に生きていますと著者は証ししています。しかしその反面、今の日本では、年間3万人の人が自殺をしています。生きることは素晴らしいどころか、息苦しく絶望を感じる人が沢山いるんです。聖書にはこんな言葉があります。

「なんという空しさ。なんという空しさ。すべては空しい。太陽の下、人は労苦するが、すべての労苦も何になろう」(コヘレト1:2〜3)。

 生きることが素晴らしいどころか、空しいものだと告げています。

「人間にとって最もよいのは、飲み食いし、自分の労苦によって魂を満足させること」(コヘレト2:24)。

 人生こんなものなら、死に直面して生の素晴らしさを信じるなんて、無理に思えます。この第8のポイントを色々思いめぐらしていてふと気づきました。生の素晴らしさというのはあいまいな言葉なので、聖書の言葉に言い換えたほうがよいと。

「死に直面しても、喜びと感謝をもって生きることができると信じている。自分にとって価値あるものを喜び、かつそれに縛られないと感じている」。

 今日は、前半の「死に直面しても、喜びと感謝をもって生きることができると信じている」ことを聖書から教えられたいと思います。黒澤明監督の『生きる』という映画があります。人が死を宣告された時、どのように生きていくのか、というテーマを持っています。この映画は、死を宣告され絶望した人が、残された時間を有意義に生きていく姿を描いています。これも一つの生き方です。

「死に直面しても、喜びと感謝をもって生きることができると信じている」。

 これは死に直面したら生き方を変えるというのではなくて、いつも喜びと感謝をもって生きているので、死に直面してもなお喜びと感謝をもって生きることができると信じるという考えです。残された時間が限られていると知らされるわけですから、今までと違ったことをするかもしれませんが、「喜びと感謝をもって生きる」という基本線には変化のない生き方です。聖書はこのような生き方を私たちに教えていると私は信じます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(テサロニケ一5:16〜18)。

 神が、イエス・キリストを信じている私たちに望んでおられることは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝することだ、というのです。神はそういう生き方を可能にしてくださるお方なのです。人生順調な時は、喜び感謝できるけど、いつも順調とは限らない。神は無理なことを私たちに要求していると考える人もいるかもしれません。でも、神様は無理なことを私たちに要求することはしません。


 今日読んだ聖書ルカ福音書は、イエスの十字架の場面です。イエスが死ぬ場面です。死ぬ直前イエスは何と言ったのでしょうか。

「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」

と言いました。人は自分の人生を自分でコントロールして生きようとします。自分はこのように生きたい、ああしたい、こうしたいと考えて生きています。人生なかなか思い通りにならない面がありますが、自分でコントロールして生きようとします。しかし人は、自分の死をコントロールできません。蟻地獄に吸い込まれる蟻のごとく、どうすることもできずに死んでいくのです。


 イエスは死ぬ時、自分のすべてを神にゆだねたのです。神にゆだねることができる、これは幸いなことです。それなら、人生すべて神にゆだねるなら幸いなのではないか。神にゆだねる、これが信仰生活で大切なことです。


 聖書は、神を信じれば物事が皆うまく運ぶ、だからいつも喜び、どんなことにも感謝しなさいと教えているわけではありません。神を信じれば物事がうまくいくとは教えていません。何よりも、イエスは十字架の上で死にました。イエスのことを宣べ伝える働きをしたペトロにしても、パウロにしても、迫害を受け苦しい目に何度も遭っています。パウロはこんな風に語っています。

「兄弟たち、アジア州でわたしたちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」(コリント二1:8〜9)。

  パウロは、イエスのことを多くの人に伝えているのに、神様に何でこんな辛い目に遭うのですか、と愚痴を言ったり、文句を言ったりはしませんでした。ではパウロは何をしたのか。

「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(1:9)。

 神に頼ったのです。するとどうなったでしょうか。

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」。

 彼は神の救いのみ業を体験したのです。ここに信仰の醍醐味があります。神が共におられる、神が生きて働いてくださる、これがパウロの確信なのです。神を信じるすべての人が経験できるのは、神が共におられる、神が生きて働き、私たちを導き助けてくださるという経験なのです。

「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ3:17)。

パウロは語ります。これは私たち信仰者が身につけるべき習慣です。


 「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、主イエスによって父である神に感謝しなさい」というのです。簡単ですが、神様の教えとしてきちんと受けとめないとなかなかできません。食前の祈りはしても、食べ終わっての感謝はなかなかしません。簡単なことですが、この教えに従って生きていったら何が起こるのか、ということです。神が共におられることがわかる、これほど素晴らしいことはないのです。私たちは神の教えに私たちの人生をゆだねてよいのです。


 何ヶ月か前に経験したことをお話しします。一つの悟りを与えられました。

  • 私は、自分が信仰を持つようになったこと、牧師になったことを振り返っていました。
  • クリスチャンの家庭で育ったわけではなく、身近にクリスチャンがいたわけでもありません。その自分が信仰に導かれたのは不思議という他ありません。
  • クリスチャンになることを自ら目指したことは一度もありません。
  • 人生において色々なことが起きましたし、辛い思い苦しい思いをしました。それらは神を求めるように私を導きました。
  • わたしの人生に起きたことで無駄なことは何一つなく、私が神様を求めるように働きました。
  • しかし、目に見えない神を信じるために何年もの時間が必要となりました。目に見えないものを信じられるわけがありません。
  • でもある時、説教を聞いていて迫るものを感じ、洗礼を受けました。
  • それだけではありません。牧師にまで導かれました。
  • 牧師になることなど生まれてから一度も考えたこともありません。信仰を持ってから一種の憧れを感じたことがありますが、自分に向いていないことは明らかでしたから、
  • 牧師になることを願うことはしませんでした。それなのに牧師に導かれました。

 それまでも、自分は神様に導かれて、信仰者になったし、牧師になったと考えていましたが、それは頭で考えていたのでした。しかし、今、わたしの人生は、神がおられることを証明しているではないか、と悟りました。だから今、神様が存在するという証拠を見たければ見せてあげますよ。ほらここにありますよ、と私は自分を指さします。

「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」。

 神を信じて、神と共に歩む時に与えられた恵みです。神と共に歩む、それは私がどのような状態であれ、喜びと感謝が伴う歩みなのです。


 喜びと感謝を「幸福」という言葉で言い換えることができるとするなら、それは直接目指すべきものではなく、付随的に与えられるものということができます。神と共に歩む時に、神と共に歩むことを目指す時に、付随的に、つまり添えて与えられるのです。


 野球のイチロー松井秀喜、彼らは幸せだと私は思います。彼らは好きな野球を仕事としているからです。彼らは好きだから、一生懸命野球をするのです。するとそこに幸福が伴うのです。幸福になるために野球をしているのではなく、好きな野球をしているから幸福が伴うのです。幸福というのは直接求めるものではなく、添えて与えられるものなのです。喜びと感謝もまた、神と共に歩む時に添えて与えられるものだと信じます。イエスは教えました。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」(マタイ16:25)。

 イエスのために命を失う者は、それを得るとありますが、イエスのために生きる人に喜びと感謝が添えて与えられると解釈してよいのではないでしょうか。またパウロは言いました。

「主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(コリント一15:58)。

 神に仕える業に励むなら、労苦は無駄にならないとの約束です。主の業に励む時、労苦が無駄になるどころか、喜びと感謝が添えて与えられるのです。

「死に直面してもなお生の素晴らしさを信じることができる」。

 これが信仰の成長の第8のポイントです。聖書の言葉に従って生きる、神の言葉に自分の人生をゆだねる時に、このことが実現します。神の言葉に従って日々歩み、死に直面してもなお喜びと感謝に生きる恵みをいただく者になりましょう。


祈り

天の父、私たちに与えられている命には限りがあります。この人生は神の御国を目指す旅でもあります。旅ではありますが、与えられた毎日を感謝をあなたと共に歩み、あなたを愛し、人を愛することを通して、yほろこびと感謝を持って日々を送ることができるように導いてください。そして命が終わる時には、なおあなたが導かれた生涯を喜び感謝し、いよいよ神の国に旅立つことに喜びを覚えることができますように導いてください。
 わたしたちの国では、生きることに絶望し、自ら命を絶つ人が多いです。たしかに行きにくい社会ですが、あなたを知る時、困難の中にあっても希望をもって生きることができます。私たちが多くの人々に信仰を持って歩む幸いを伝えていくことができるように、一人一人をあなたに用いられる者としてください。
 わたしたちの中に息苦しさを覚える人がいましたら、あなたが親しく導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。