クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.11.7)
聖書 ルカ2:1〜20 大きな喜び


 聖書には、喜びなさいという命令があります。「いつも喜んでいなさい」。しかも、私たちがいつも喜んでいることを神は望んでおられるというのです。うれしいこと、よかったこと、楽しいことなど、喜べるようなことが起きると私たちは喜べるのであって、喜びなさいと言われて喜べるようなものではないと言いたくなるのではないでしょうか。


 喜びに生きる、これが私たちの信仰です。いつも喜んでいなさいと命じられますが、いつも喜んでいることができる、それが聖書の教える信仰だと信じます。信仰者の身に何が起ころうと、その心の底にはいつも喜びがある、それがキリストを信じる人であると私は信じています。


 今日読んでいただいた聖書は、救い主であるイエスの誕生の次第を物語っています。

  • マリアと婚約者のヨセフが人口調査のためにベツレヘムの町に行ったこと、
  • そこでマリアは出産したこと、
  • 救い主の誕生を天使たちが羊飼いに告げたこと、
  • 羊飼いたちが生まれた子供を捜し見つけたこと、
  • 彼らが天使の告げたことをそこにいた人々に話したこと、
  • そして神を賛美しながら帰ったことなどが、語られています。


 今日は、天使が羊飼いたちに語った言葉、「私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」という言葉に注目したいと思います。天使が告げる大きな喜びとは何でしょうか。天使は言います。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」。ですから、救い主が生まれた、それは大きな喜びです、と天使は告げたことになります。


この天使の言葉を聞いて、羊飼いたちが大喜びしたのかどうか、それは聖書には書かれていません。「あなたがたのために救い主が生まれた。喜ばしいことでしょう」と言われて、すぐに喜べるとは限りません。救い主から救いを受け取って、初めて喜べるのではないでしょうか。救い主がもたらす喜び、それは大きな喜びなんだ、と天使は告げたのです。私たちには大きな喜びが約束されているのです。


 うれしいことが起きると私たちは喜びます。喜びというのは、喜ばしいことが起きたときに湧いてくるものです。新約聖書使徒言行録の3章に、生まれつき足が弱くて歩けない人が登場します。彼はエルサレム神殿の境内で物乞いをしています。礼拝に来る人がお金を恵んでくれるのを期待しているのです。その彼に対して、イエスの弟子のペトロが「私には金や銀はないが、持っているものをあげようナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり歩きなさい」と言います。するとその人は、立ち上がり歩きます。彼は喜んで踊ります。足がなおる、彼にとってはうれしいことです。ですから彼は喜びを体で表現します。彼は踊るのです。


 大きな喜び、仮に天にも昇るような喜びが与えられたとしても、その喜びは、その時だけ、ということがよくあります。

  • 入学試験に合格
  • 子供の誕生、
  • 好きな人との結婚
  • 会社での昇進など、

 私たちの生活中で、喜ばしい出来事が起き、私たちは喜びます。しかしこの喜びは、その時だけのものであることがしばしばです。希望する学校に進学できることは喜びですが、実際に進学して学校生活が始まると、入学できたことをいつまでも喜ぶということはしません。学校生活の中で喜びを見いだそうとするわけで、入学できた喜びは過去のものとなります。


 ですから人は、うれしい出来事を記念することによって、その喜びをもう一度味わおうとします。誕生日のお祝い、結婚記念日のお祝い、それは喜びの再現です。イスラエルの人々は過越の祭りを行い、エジプト脱出の出来事を回顧し、神の民とされた喜びを味わいます。私たちは聖餐式を行い、キリストの十字架の死により、救われている喜びを味わいます。


 うれしいことが起きて喜ぶ喜び、それはその時だけのものとなります。どんなに大きな喜びでも、色あせていきます。救い主を信じる喜びもまた、過去のものとなります。信仰に入ったときは、うれしく喜びますが、そのうちに燃えていた心も冷めてくる、そういうこともあります。

「いつも喜んでいなさい」

という聖書の命令、天使が告げる「大きな喜び」。信仰が与える喜びとは何でしょうか。それは、イエス・キリストを救い主として受け入れることをきっかけに生じ、さらに信仰生活を送る中で、いつも心の底に流れ、さらに波が押し寄せるように、心に打ち寄せる、それが信仰者の得る喜びであると考えます。こういう喜びを私たちは日々の生活の中ですでに味わっています。


たとえば、子供の誕生。それは親にとっては喜びです。しかしその喜びは色あせていきます。しかし親にはさらに喜びが続いて与えられます。子供を育てるという喜びです。子供と共に生きる喜びです。これはささやかかもしれません。子供が這うようになれば喜び、立つようになればまた喜び、歩くようになればさらに喜び、と子供の成長を喜びます。子供と共に生きるとき、そこには子供の成長を喜ぶ喜びが伴います。


子供の誕生をきっかけに、親と子の関係が生じるのです。そして親と子の関わりに生きるとき、喜びが添えて与えられるのです。しかし、人間関係は諸刃の剣です。そこに愛がないと、人間関係は悩み、苦しみをもたらすこともあります。しかし愛が喜びをもたらします。だから、子供を愛することは大切です。


そこで聖書は、親に対する教えを述べます。「父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように育てなさい」。親は完全ではなく、しばしば親の思いを優先して子供に接したりします。それは子供に悲しみや怒りをもたらし、子供は大きくなるに連れ、親に反抗をするようになったりします。子供を愛し、子供を怒らせず、適切にしつけ諭していくなら、親子の関係は、喜びをもたらすものとなります。私たちは親子関係を築くのです。


 それは夫婦の関係でも同じです。結婚したら夫婦関係を築く努力が始まります。結婚した喜びは色あせていきますが、夫婦の関係を築いていく喜びは、日々与えられていくのです。愛し合う努力を惜しまなければ、この人と結婚して良かったという喜びは、年齢と共に深まっていきます。


 そして「愛する」ことはいつからでも始めることができます。遅すぎることはありません。すでに独立した子を愛することを今から始めることもできます。年老いた伴侶を心を込めて愛することを今から始めることもできます。


 喜びというのは、応答を生み出します。夫に愛されていることを知れば、妻は喜び、さらに夫に仕えるでしょうし、妻が自分に仕えてくれると知れば、夫は喜び、妻をさらに愛するでしょう。親の愛を知れば、子は喜び、親に従順になるでしょうし、従順な子を親は喜び、さらに子を愛することでしょう。


 子を授かるとき、親と子の関係が生まれます。男女が結婚するとそこに夫婦の関係が生じます。子が生まれる、結婚する、それは新たな関係が生まれるということです。それは一つの大きな喜びです。そして、その関係を築いていくこともまた喜びであり、よい関係を築き続ける努力はいつでも必要ですが、それと同時に、喜びがいつも与えられることになります。


 神を信じるとは、神との関係を持つことを意味します。救い主イエスを信じることにより、イエスとの関係、父なる神との関係が始まります。この関係に生きるとき、この関係をよりよいものに築いていくとき、私たちには、喜びがいつも与えられます。信仰者の心の底にはいつも喜び流れているのです。

  • エスの弟子だったペトロは、イエスが逮捕されるとき、イエスを見捨てて逃げてしまいました。
  • しかし復活の主イエスに会い、また聖霊の注ぎを受けた後は、迫害を恐れずに、イエスのことを宣べ伝え始めました。
  • 迫害されたときには、迫害されるほどの者にされたことを喜びさえしました。
  • エスの弟子とされ、イエスを主と仰ぐイエスとの関係に生きることは、ペトロにとっては大きな喜びだったのです。
  • 迫害を恐れないほどに、イエスとの関係は喜びだったのです。


 パウロは、ローマ12:1で

「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」

と命じています。自分の体を神に献げるとは、自分の人生を神に献げるということです。


 イエスは、永遠の命を得るにはどうしたらよいのですか、と質問する人に「あなたの財産をすべて貧しい人に施し、私に従ってきなさい」と告げました。その人は悲しみながら、イエスのもとを去りました。財産を貧しい人に施す、それができなかったからです。パウロは、あなたの体、あなたの人生を神に捧げなさいと命じます。なぜ、そこまで言うのでしょうか。それはイエスとの関係を築いて生きる喜びが、そうさせているのです。そうせざるを得ないのです。イエスは救い主です。神はイエスを救い主として送ってくださいました。

  • 私たちがこのイエスを救い主として受け入れ、
  • エスとどのような関係を築いていくのか、

 それによって信仰に生きる喜びの大きさ、喜びの持続性に変化が生じます。「いつも喜んでいなさい」という命令は、イエスとの関係をいつも喜んでいなさいと言い換えることができます。


 イエスは救い主です。イエスを通して、私たちは神を信じ、救いに入れられる喜びを受け取ります。さらにイエスを主と信じて生きるとき、イエスとの関係に生きるときに喜びが添えて与えられるのです。イエスが私の主となってくださり、神が父となってくださる、それが信仰者の喜びとなるのです。私はイエスのものである、このことは信仰者の最大の慰めなのです。ですから、私たちが救い主イエスとどういう関係を築いて生きるのか、それが重要です。


 あなたの親との関係、あなたの子供との関係、あなたと妻との関係、あなたと夫との関係、あなたがどういう関係に生きているかによってどれほどの喜びが与えられるのか、それはあなたがよく知っているはずです。よい関係にあればより大きな喜びがあることを知っているはずです。信仰は神とどのような関係を築くかが課題なのです。神はイエス・キリストを十字架につけ、私たちの罪を赦し、私たちの父となると言ってくださいます。神を父として子と生きるように、神は招いておられるのです。


 年齢を重ねると、肉体、精神の衰えを感じ、喜びが少なくなるように感じるかもしれません。しかし、衰え、弱さを感じるとき、自分の子供として私たちのことを慈しんでくださる父なる神を信じる恵み、喜びが増し加わることを私たちは知るのです。


祈り
 天の父、救い主イエス様を私たちのもとに送ってくださり感謝します。イエス様を信じる私たちをあなたの子として慈しんでくださるあなたをたたえます。
 あなたの子として、新しく生まれ変わり、心清められ、自由なものとされ、愛する者、愛される者として歩むことができる幸いを感謝します。
家族、信仰の友と互いに愛し合う喜びの中に私たちを生かしてください。そして愛することの尊さをすべての人が知り、愛がこの地を満たすように願います。イエス・キリストのみ名により祈ります。