クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の御子 なぜ、なに(1)

ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

ローマ 1:2~3
この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです。

 素朴な質問をするなら、神の子ってなに?
 人間を救うのはなぜ神の子?

 キリスト教が信じる神は唯一の神です。旧約聖書に書かれている十戒の第一の戒めは、次の通りです。

出エジプト記 20:3
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 旧約聖書において、神ご自身、わたし以外に神はいない、わたし以外のものを神としてはいけないと命じます。

 紀元1世紀、イエスという人間が登場し、神の国を宣べ伝えます。その言動を聞いていると、どうも自分は神であると語っているように見えます。神は唯一の神、おひとりしかいない、自分を神とする者は、神を汚す者に他ならない、と律法学者、ファリサイ派の人々は考えました。

ヨハネ 5:18
このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 当時のユダヤ人にとって、イエスを理解し受け入れることは相当に難しかったと思われます。では私たちはどうなのでしょうか。イエスさまは、救い主、神の独り子、私たちは抵抗なく信じ受け入れてきたように思います。

神はおひとりなのに、なぜ御子がいるの?
そうなら神は二人いることになるのでは?

 不思議なことに代々の教会は、聖霊も神であると教えました。すると神は3人いることになるのかと思ったら、神はひとりであるという三位一体という教えを教会は伝えてきました。

 神は世界を創造し、人間をご自身に似せて造られました。人間に自由を与えました。神はその人間が罪を犯すことをご存じであり、罪に対する対処をすでに計画されました。神は世の初めにおいて、救い主を世に送ることを計画しておられました。

イザヤ 46:9~10
思い起こせ、初めからのことを。わたしは神、ほかにはいない。わたしは神であり、わたしのような者はいない。
わたしは初めから既に、先のことを告げ/まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。わたしの計画は必ず成り/わたしは望むことをすべて実行する。

 世界を創造した神は、ご計画を持っておられました。その計画の中で、救い主が登場するのですが、救い主は、神の御子だというのです。どういうことなのかと思案します。

カツラの木の葉 ハートのかたちで美しい

 

目を開くイエス

 イースタのあと、今年はルカ福音書の24章を思いめぐらしました。ここにはイエスの復活についての物語が書かれています。今年この箇所を読んで気づいたことがあります。それは「目」です。

 13節以降で、二人の弟子がエマオという村に向かって歩いていました。そこにイエスが近づき「歩きながらやりとりしているその話は何のことですか」と問います。彼らは語りかけたのがイエスだと気づきません。二人の目が遮られていたからとあります。

 彼らはイエスにエマオ村に泊まるようにと勧め、夕食を共にしました。イエスはパンをとり、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて二人の弟子に渡しました。その瞬間、二人の弟子たちの目が開け、そこにいるのがイエスだと気づいたと書かれています。

 二人の弟子は、急いでエルサレム戻り、他の弟子たちに主は本当に復活したと話しました。するとそこにイエスが現れると弟子たちは亡霊を見ていると思い、恐れおののきました。イエスは手と足をお見せになり、さらには焼いた魚を食べて、自分は亡霊ではなく、復活したご自身であることをお示しになりました。

 そしてイエスは「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」とあります。そしてイエスはメシアが死んで復活することは聖書に書いてあると説明されました。

 心の目が開かれ、弟子たちはイエスが復活したことを信じ、また旧約聖書に書いてある通り、メシアが苦しみを受け、死者の中から復活したことを理解しました。心の目が開け、聖書が理解できたのです。

 目が遮られているとイエスのことが分からないのです。目が開かれるとメシアのことが、聖書に書かれていることが分かるというのです。

 人は自分で自分の目を開くことはできないようです。イエスが私たちの目を開ける方です。そして目が開かれるとイエスのことが分かるようになると書かれていました。目が遮られていないかどうか、目が開かれているかどうか、吟味することの必要を思わされます


 多くの人は自分は見えていると考えますが、イエスは次のように言われたことがあります。

ヨハネ 9:39
イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」。

 イエスはファリサイ派の人たちにこう言いました。

9:41
「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」。

 聖霊が私たちの目を開くとき、私たちはイエスのことが分かり、イエスを主と仰ぎ、主に従う者となることを思います。目を開いてくださいと祈りつつ聖書を読みたいとあらためて思いました。

コバノガマズミ 散歩道

 

 

生きておられるイエス(6/6)主を賛美する

 復活のメッセージは、「主は生きておられる」でした。私にとって主はどのように生きておられるの、主は私のうちに生きておられると信じないで、主の復活を信じることは意味がない、そう思います。主の復活を信じるとは、主が私のうちに生き、私を生かしてくださることを信じることです。

 私は主が私のうちに生きておられると信じることにしました。実感はありません。でも信仰者の自分の有り様を考えるとき、その一つの答えは、主イエスが私のうちに生きておられるからだと考えます。

 今回は、賛美です。私は賛美が好きです。特に今は、讃美歌224番を毎日賛美しています。

1.
勝利の主イエスの名と
栄光の神の国
四方(よも)の民に宣べ伝え
広めよとの声きこゆ

2.
主の救い 神のわざ
そのままに受け入れて
生まれ変わり共々に
神の国へ進み行け

 1番は、牧師として歩んだ自分の人生を歌っているように響きます。2番は、イエス・キリストを信じ、生まれ変わって歩む私に、神の国へ進み行けと励ましてくれます。信仰に生きることを喜び、神の国へ進み行けと励ましてくれる讃美歌を歌うことは楽しいし、励まされます。

 「あなたが信じるのはよい。でもそれは本当なのか。信じて大丈夫なのか」と疑う心があることは確かですが、疑う心は何も生み出しません。しかし賛美することは、励ましであり、喜びであり、力を与えられます。このように信仰に生きる力が与えられるのは、私のうちに生きておられる主イエスが喜んでおられるのではないかと信じるように導かれる思いがします。

教会の近くの道で

 

信じる心と疑う心(5/5)対処法

 疑うことは、偽りを信じないために大切なことです。疑いが生じたときは、疑いを放置していると疑いに取り込まれてしまうので、きちんと対処することが必要となります。

 私にとって疑いに対する一つの対処法は、自分が信仰者として歩んできた歩みを考えることです。自分はクリスチャンとして長年生きてきました。信仰の歩みをしてきました。疑うとは、これまでの信仰の歩みが意味がなかったと評価することになります。これは自分の人生を否定することになります。人生を無駄に生きてきたと認めることになります。キリスト者という自分のアイデンティティーを否定することになります。これはなかなか耐えがたいことです。それゆえ、疑いを捨てます。疑いに対する一つの対処法になると考えました。

 信仰に関わる事柄は、必ずしも証明できるとは限りません。証明できるなら疑いは消えます。そもそも神がいるかどうか、証明はできません。証明できないので私たちは信じます。神がおられると聖書が語ることは真理だと考えあるいは納得し、神を信じます。

 疑いが生じるとき、その対象が真理であるかどうか、疑問に思うわけです。でも信仰の事柄は真理であると証明することはできません。そこで疑いに対する対処の方法は、聖書が語ることは真理であると考えることができるかどうか、追求することです。

 それは聖書を読み、その内容が真理であると確信することにより、疑いに対処できると今、考えています。疑いが深ければ、真理はそれにまさることを聖書を読みながら確信するのです。それが疑いに対する私の対処法だと最近思うようになりました。聖書は人間について深いことを語っていると思えるとき、聖書は真理だと思うことが時々あります。

 私は英国の故マルチン・ロイド・ジョンズ牧師の聖書講解の書物を読むと、聖書が語ることの深さ、そして聖書は真理であるといよいよ確信する経験をします。

 疑いが生じる、それは聖書が真理であることを信じることへの挑戦です。疑うことは不信仰ではないと考えます。疑いは、聖書が真理であることを知ることへの招きです。そんな風に受けとめます。

畑の中のレンゲ 散歩道

 

生きておられるイエス(5)キリストと共にいる

 自分の内にイエスが生きておられると公言することは簡単ではありません。公言すれば必ず質問が来ます。

  • 自分の内にイエスがおられるとなぜ、わかるの。
  • イエスが内におられたら、どんな感じがするの?
  • イエスが内におられたら、どんな変化が自分の中に起きるの

 答えれば、「えっ、それで」と言われるに違いありません。でも私は、イエスがうちにおられると告白したいと考えるようになりました。今回は、フィリピ書にある言葉です。使徒パウロは語ります。

フィリピ 1:21~23
わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。
けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。
この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。

 パウロは二つのことの間で板挟みになっています。一方ではこの世を去ってキリストと共にいたいと熱望しています。他方で、世にあれば実り多い働きができます。どちらを選んだらいいか分からないというのです。

 パウロは「この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており」とあります。このパウロの心境を聞いて、こんな人がいるんだと最初思いました。このパウロの心境に、私も近づきたいと日々祈り願っています。

 自分はなぜ、このような祈りをするのか、と考えたときに、イエスが私の内におられるからだと考えます。イエスが内におられる、それは信じる事柄です。

 死んで神のもとに召され、イエスと共にいることを望みにできることは素晴らしいことだと思います。このような望みを自分が抱くのはなぜかと考えたとき、イエスが内におられるからだと信じるからです。私の今後の人生において、イエスに会うことができる、このこと以上に素晴らしいことはないと思います。

ニオイタチツボスミレ 散歩道 清楚な香り



 

礼拝説教 約束された福音(ローマ 1:1~7)


2024年4月14日、説教奉仕をしましたので、その説教を紹介します。
音声サイトへ行くには ここをクリック
聞いていただけるとうれしいです。
~~~~~~~~~~
ローマ 1章1~7節
説教 約束された福音
~~~~~~~~~~

0.導入

→ローマの信徒への手紙を取り上げて説教ます。

今日は「約束された福音」と題して説教します。

 

1.福音は約束されたもの

 

→2節にこう書かれています。

「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもの」。

 

→「福音」という言葉は、喜びの知らせという意味があります。

その喜びとは、救いの訪れの喜びです。

つまり救い主が現れ、救いの御業を行われたと告げるのが福音です。

福音が約束されているとは、救い主の登場が約束されているということです。

 

→預言者を通して約束されたもの、とあります。

文字通りに読めば預言者が救いの訪れについて語ったということです。

たとえば預言者イザヤは語りました。ちょっと長いですが、イザヤ53章の言葉を紹介します。

 

イザヤ 53:2~5

53:2 乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように/この人は主の前に育った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない。

 53:3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

 53:5 彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

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生きておられるイエス(4)キリストに似た者となる

 私は最近、自分の内にイエスが生きておられると確信することにしました。それはイエス・キリストの復活を信じることにつながります。こう考えると腑に落ちることがあるからです。

 私はキリスト者としてキリストに似た者となることを目指しています。次のような聖句があります。

ヨハネの手紙一 3:1~3
御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

 

 御子が現れる終末の日、私たちは御子に似た者となるとあります。それなら、今、キリストに似た者となる歩みをすれば、私の信仰者人生が、終末の日に完成します。

コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

 主の霊の働きを受けるなら、私たちは主と同じ姿に造り変えられていくとあります。私にとって信仰者として歩むとは、主と同じ姿に造り変えられていくこと、キリストに似た者となることです。

 自分はなぜ、キリストに似た者となることを目指しているのか、目指してきたのか、それは私の内にイエスが生きておられるからだと理解するようになりました。

 私の好きな讃美歌11番にこのような歌詞があります。

こころをきよめて 愛を満たし
わが主のみすがた 成らせたまえ

 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容が身につくように。
(コロサイ3:12)

 これはキリストに似た者となることを願っての、私の日々の祈りの一つです。

ムスカリ 散歩道