本日のメッセージ(2007.6.24)
コリント一7:17〜24 自由な人
7:17 おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。
7:18 割礼を受けている者が召されたのなら、割礼の跡を無くそうとしてはいけません。割礼を受けていない者が召されたのなら、割礼を受けようとしてはいけません。
7:19 割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。
7:20 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。
7:21 召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい。
7:22 というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
7:23 あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません。
7:24 兄弟たち、おのおの召されたときの身分のまま、神の前にとどまっていなさい。
クリスチャンとは自由な人であり、キリストを誇りに思う人のことです。このことを聖書から聞きます。
「あなたは男ですか。女ですか」
と聞かれたら、「私は男です」あるいは「私は女です」との答えが返ってきます。あなたは何者ですか、どんな人ですかという問いには、他の答えもあります。「私は日本人です」「私は金沢生まれです」「私はどうしようもない人間です」「私なんかいてもいなくてもどちらでもいい人間です」「私は神の子です」。私たちが自分のことをどう考えるか、とても重要です。
「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい」(17節)。
パウロは最初に「自分を変えるな」と語っています。
「召されたときに奴隷であった人も、そのことを気にしてはいけません。自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」(21節)
を読んで
「奴隷のままでいろ!パウロってちょっとひどい」
と考える人もいます。 奴隷制度に反対すべきじゃないの、と思うからです。パウロの語ることに耳を傾けましょう。
最初に二人の人が登場します。「私は割礼を受けている」「私は割礼を受けていない」という人です。割礼=イスラエル人の男性の特徴です。ユダヤ人の男の子は生まれて八日目に割礼を受けます。それは神の民のしるしです。割礼を受け、「僕はユダヤ人」「僕は神の民」と言えるのです。
キリスト教が広まるにつれ、異邦人クリスチャンも割礼をという主張が教会の中に生じた。それが大問題になるのですが、割礼は必要ない! パウロは戦ったのです。割礼を受けた人は、割礼の跡を消す必要はないし、受けていない人は受ける必要がないと語り、パウロは、割礼という点で自分を変える必要がないと語っています。
次は身分です。当時の社会は奴隷制度の社会でした。奴隷のクリスチャンもいれば、奴隷でない自由人のクリスチャンも教会にいました。奴隷の人は、自由人になれるとしても奴隷のままでいなさいとパウロは語ります。パウロは奴隷制度を容認する政治的発言をしているわけではありません。
「主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです」(22節)。
社会的な身分として奴隷ではあっても、イエス・キリストを信じる人は、自由の身なのです、と宣言していることが重要です。パウロは心の自由を問題にしているのです。
身分として奴隷のクリスチャンは
「私は自由な人間です」
と答えることができるのです。これが大切なのです。キリストを信じることにより、「私は自由な人間です」とか「私はキリストの奴隷です」と答えることができます。どちらの表現も喜びと誇りの表現です。大事なことは、キリストを信じる者として、自分を何者と考えるか、です。
私は以前強い劣等感を抱いていました。自分の目の前にいる人が優れていると思えると
「僕は劣った人間だ」「僕は駄目な人間だ」
と反応してしまうのです。でもキリストを信じる時、
「私は神に愛されている者です」
「こんな私も神に愛される者です」
と思う時、劣等感から解放されました。以前は、劣等感の奴隷でしたが今は、キリストのおかげで、劣等感から自由になり、心の自由を得ました。
私の知っているある人は、
赦せない思いの奴隷でした。
その人は夏休みなどに実家に帰ると憂鬱になったのです。実家に帰ると、挨拶をしなければならない人がいるのです。その人を赦せないという思いがあり、会うのが辛くて憂鬱になります。ですから祈ってから会いに行きます。ある時、その人を憎む思いがあることに気づきました。憎しみという根が心に生え、赦せない思い、憂鬱な思いという実がなったのです。
憎しみという根を取り払った時、その人を愛することができるようになりました。赦せない思い、憂鬱な思いの奴隷だったのですが、キリストのおかげで自由になりました。心が自由であることが大切なのです。私たちは様々な思いの奴隷、囚われの身です。しかしキリストにより、自由を得て生きることができます。
社会的な身分が自由な人は、「キリストの奴隷です」。キリストに仕える、これは心が自由な人にしてできることです。大事なことはキリストを信じて、自分がどんな人間になるか、を知ることです。
人類の歴史を見て思います。人類は、幸せを求めてどういう仕組みの社会をつくったらよいのか、取り組んできました。王という絶対的な君主のいる社会から民主的な社会を、階級のない共産主義社会をつくってきました。しかし完璧な制度はなく、どんな制度、仕組みの社会でも、色んな問題で人は苦しんでいるのです。制度や仕組みが人を幸せにするのではなく、キリストが人を自由にするのです。キリストが人を幸せにするのです。
パウロは、奴隷制度という仕組みよりも、キリストにあって自由に生きることの大切さを述べたのです。クリスチャンであることを大切に考えなさいと教えたのです。真の自由は身分的な自由ではなく、キリストが与えてくれる自由にあるのです。
適用です。あなたは何者ですか。あなたは本当に自由な人ですか。
「真理はあなたたちを自由にする」
とキリストは語りました。あなたは今の立場で自由ですか。
クリスチャンは、永遠の命を持ち、死の恐れから自由です。罪赦されているので、バチの心配から解放されています。キリストから平安を与えられ、何が起ころうと思い煩いや心配から解放されています。新しく造られているので、昔の古い自分に悩む必要もありません。義とされているので、最後の審判を恐れる必要がありません。神の子とされているので、自分が誇らしく思えます。あなたは自分をどう考えますか。