クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.1.13)
コリント一13:4〜7 愛は高ぶらない


1.私たちは、高ぶることが何かをよく知ろう


「愛は高ぶらない」とあります。「高ぶる」とは、

「ふくらませる」という意味の言葉です。

自分を自分以上の者に見せることを意味します。

どうやって人は自分を自分以上の者に見せるのでしょうか。

たとえば身につけるもの、生活ぶり、知識、学歴、地位、名誉などで自分をふくらませることができます。

たとえば自分が持っている知識。

「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)

とあります。知識はあるに越したことはありませんが、知識がその人を優れた人間にするわけではありません。コリント教会には、信仰上の知識のゆえに高ぶっている人々がいました。
またコリント教会では、

「私はパウロにつく」「私はアポロにつく」

と指導者を立てて、争いがありました。自分の指導者の方が優れていると言って、高ぶっていたのです(4:6)。自分の支持する指導者が優れているからと言って、自分が優れていることにはなりません。

 人は、自分の持ち物、生活ぶり、学歴、会社、地位、名誉などによって自分を誇り、高慢になることがあり、優越感を感じたりします。こうして自己満足し、プライドを満足させます。幸福を感じます。

 高ぶりの反対、自己卑下も根は同じです。コインの裏表です。

 モーセは、神から、イスラエルの民を救い出すための指導者に命じられました。しかし神から呼ばれた時、モーセは拒みました。口べたで、指導者になるのは無理です、と神に答えました。イスラエルの民を導く指導者になれるかなれないか、誰が正しい判断を下せるのでしょうか。もちろん神です。

 私たち時に、自分には無理です、と自分を低く判断しがちです。これを自己卑下と言います。これは「高ぶり」の裏返しです。自分をしぼませすぎるのです。自分を不当に高く評価したり、低く評価したりするのは同じ間違いです。共に自分を正しく評価できないのに、評価できると考える間違いを犯しています。

 私たちは、神が自分を評価するままに自分を見る必要があるのです。神だけが、私のことを正しく評価できるのです。高ぶりの心、自己卑下の心がありませんか。コリントの教会がそうであるように、高ぶりは教会の一致を妨げます。


2.私たちは、高ぶりから解放されて、愛に生きよう


 愛は妬まない、愛は自慢しない、愛は高ぶらないと聖書は教えます。この教えは、人間の問題点を教えてくれます。神を見失った人間に共通の問題点です。神を見失った人間は、自分をどう評価していいのか、分からないのです。同時に、自分の価値を信じたいのです。だから人の評価を求め、それに左右されます。

 他者が自分のことを認めてくれればうれしいし、否定的なことを言われると人格を否定されたように感じたりします。自分を低く評価する人は、劣等感を感じたり、人を妬んだりします。自分を高く評価する人は、高ぶったり、優越感を感じたりします。これが神を見失った人間の姿です。

 第一、神の愛は私たちを高ぶりから解放します。優越感から、劣等感から私たちを解放します。人の評価を気にすることから私たちを解放します。
神が、私たちのことを認めてくれるからです。実は、私たちは、神の目から見れば取るに足りない者なのです。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(1:26)。

「あなた方は無学であり、無力である、無に等しい者であった」とあります。でも人は自分を誇りたく思います。

 もし私たちが自分の知識を誇るなら、神はこう言うのです。

「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(8:2)

もし、私たちが持っているものを誇るなら、神はこう言うのです。

「あなたをほかの者たちよりも、優れた者としたのは、だれです。いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか」(4:7)。

 もともと私たちには、誇りうるものは何もないのです。神に愛されている、この一点において、私たちは自分の価値を受けとめ、私が私であることを喜ぶことができるのです。神に愛されている自分を喜ぶことができるとき、私たちは高ぶる必要がなくなり、高ぶりから解放されるでしょう。優越感からも、劣等感からも解放されるでしょう。

 第二に、教会における信仰者の交わりが、私たちを高ぶりから解放します。ねたみ、自慢、高ぶりは、自己中心的人間の特徴です。自分にしか関心がないのです。愛は、愛する対象に関心を向けます。自分だけでなく、他者にも目を注ぎます。

 どのようにして私たちは互いに愛し合うのでしょうか。愛が妬まず、自慢せず、高ぶらないと教えられる時、愛するとは互いのよい点を敬うことです。

「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)。

 これを実践するとき、私たちは他者の存在を喜び、自分を喜ぶことができるのです。人を妬んだり、自慢したり、高ぶる必要が無くなる。自分は取るに足りない者でありながら、神に愛され、人に愛され、自分を喜ぶことができるのです。そして優越感からも劣等感からも、高慢からも、自己卑下からも解放されるのです。


3.私たちは、教会の意義をよく知ろう


イエス・キリストは互いに愛し合いなさいと弟子たちに教えました。

「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(ヨハネ13:34〜35)。

 互いに愛し合いなさいとのイエスの命令は誰に向けられているのでしょうか。文字通り、イエスの12人の弟子のことなのでしょうか。それとも、クリスチャン全員なのでしょうか。それとも、クリスチャンには、互いに愛し合うことができてイエスの弟子と呼ばれる人と、そうでない人がいるのでしょうか。どう思います?

 クリスチャンは皆、イエスの弟子で互いに愛し合う存在だとイエスは教えています。もし私たちが互いに愛し合わないなら、私たちの教会は真の教会ではないのです。偽りの教会となります。

 私たちは愛を表現するのです。互いに愛し、互いに相手をすぐれたものとすることによってです。愛を表現することは難しくないです。本気でやる気さえあれば。

 高ぶりの反対は、謙遜です。愛は高ぶらないと言うとき、愛は謙遜に生きることと言い換えることができます。謙遜とは、自分を取るに足りないものとし、神の御心に従い、神を高くする人です。謙遜とは、互いに愛し合い、互いをすぐれた者とすることです。互いに愛しあって敬い合う教会、それが真の教会です。私たちはこのような教会を目指しています。このような教会の造るために真剣になりませんか。あなたもこのような教会の一員となりませんか。


4.適用

  • あなたには、高ぶる思い、自己卑下の思いがありませんか。あったら、一つ一つ神に告白し、赦しを求めましょう。
  • あなたは、人の評価を気にしていませんか。神の愛を信じ、人の評価から解放されませんか。人の評価を気にするのはやめますと神に告白しませんか。
  • あなたは、自分が、神に愛されていることを信じていますか。それなら神に愛されている自分を喜びましょう。
  • あなたは、他の信仰者も神に愛されていると信じますか。それなら、その人の存在を喜びませんか。
  • あなたは、他の信仰者のすぐれた点を見いだそうとしていますか。していないなら、見いだしてみませんか。見いだしているなら、身近にすぐれた面を持っている友がいることを神に感謝し、その人を模範としませんか。あなたは誰の、どんな点を模範としますか。思い切って、その人をほめてみませんか。
  • あなたは、自分の中によい点を見いだそうとしていますか。神はあなたを愛しています。あなたによい点がないということはあり得ません。それを神さまに感謝しませんか。
  • 互いに愛し合う信仰者の群れ、それが神の教会だと思いませんか。どうですか。
  • 元町教会が互いに愛し合う教会になって欲しいと思いますか。どうですか。
  • あなたもそのために力を尽くしませんか。
  • 信仰者として生きるってすばらしいと思いませんか
  • 信仰に生きる決断をしませんか。


5.祈り


天の父。
私たちから高ぶりを取り除いてください。
自分の持ち物、暮らしぶり、地位、名誉、その他の誇りとするものがありましたら、それらを誇りませんように
むしろそれらをあなたの恵みと感謝できますように
私たちが取るに足りないものであることを教えてください。
自分をいたずらに卑下することも高ぶりの裏返しであることを教えてください。
あなたに愛されている故に、
自分を喜び、私が私であることを喜べるようにしてください。
あなたに愛されている故に、
他者がその人のあるがままを喜ぶことができるようにしてください。
あなたに愛されている故に、
人を妬まなくてよいことを教えてください。
あなたに愛されている故に、
人に自慢しないでよいことを教えてください。

私たちが教会に集うのは、互いに愛し合うためだと教えてください。
互いに愛し合いなさいというイエス・キリストの教えに生きるものとして下さい。
互いの存在を喜び、互いに敬うことによって、私たちが愛を表現することができるよう助けてください。
信仰の友から愛されている故に、
自分を喜び、私が私であることを喜べるようにしてください。
信仰の友から愛されている故に、
他者がその人のあるがままを喜ぶことができるようにしてください。
信仰の友から愛されている故に、
人を妬まなくてよいことを教えてください。
信仰の友から愛されている故に、
人に自慢しないでよいことを教えてください。

愛し合うことによってすばらしい一致が教会に生まれることを教えてください。
愛し合う信仰者の群れの中に身を置くことが救いであることを教えてください。それを体験させてください。
この救いを世の人々に伝える教会の働きが神のみ心であると教えてください。
謙遜とは、自らを取るに足りぬ者とすることであると教えてください。
謙遜とは、自ら取るに足りぬものとして、神を高めることであると教えてください。
謙遜とは、他者を敬い、他者を高めることであると教えてください。

高ぶらず、謙遜になることを教えてください。
自らを低くし、他者を敬うことが愛であると教えてください。
 この愛に生きる者とならせてください。
礼拝からの帰り、誰のどの点を敬うか、思いめぐらすことができるように、そして敬うことができるように。