本日のメッセージ(2008.6.22)
聖書 コリント一16:13〜24 愛に生きる
パウロは手紙の最後の部分を書いています。このコリントの信徒への手紙は、全部で26ページにもわたる手紙ですから、手紙としてはかなり長い手紙ですね。いろいろな問題が発生しているコリント教会を心配し、パウロは丁寧な手紙を書きました。今日は手紙の最後です。
手紙全体で、パウロが一番言いたかったことは結局、「何事も愛をもって行いなさい」ではなかったか、と思います。
「何事も愛をもって行いなさい」
とパウロは命じます。
「何事も愛をもって行いなさい」と聞いて、今、あなたの心はどう反応しましたか。
1.私たちは、雄々しく強く生きよう
パウロは、「雄々しく強く生きなさい」と勧めます。旧約聖書にヨシュアという人物が登場します。彼はイスラエル民族のリーダーです。彼はモーセという偉大なリーダーの後継者です。モーセ亡き後、イスラエル民族を導く指導者です。その彼に神は言いました。
「強く雄々しくあれ!」
「私はあなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ」。
誰もが強くありたいと願います。でも自分の弱さを知っています。神はヨシュアに言います。
「私は、強く雄々しくあれと命じたではないか。うろたえてはならない。おののいてはならない。あなたがどこへ行ってもあなたの神、主は共にいる」(ヨシュア1:9)。
何かあればうろたえ、おののく者としては、強く雄々しくありたいと願います。それは実現可能なのでしょうか。
先週の日曜日、遅い昼食の後、山の上町の小坂神社の脇道から卯辰山へ散歩しました。道なき道を行くような道です。途中から鬱そうとした竹林に入りました。細い道が続き、所々道が分かれています。何本か竹が倒れているのが不気味です。頭上では、竹の葉が揺れ、互いに触れ合いこすれて何かささやいています。竹の木が動き出して、僕を捕まえいけにえにするのではないか、そんな思いが心にわいてきて、心は穏やかではありません。怖じける心を奮い立たせてしばらく歩き続けると開けたところに出て、ほっとしました。専光時の墓地でした。何かあれば、うろたえおののく私です。
信仰者の強さは、自分が持つ強さではありません。トレーニングして、筋肉を強化すれば、私たちは重いものを持てるようになります。力ある人になれます。そのように、何かトレーニング、修行をすれば、何が起きてもうろたえない、おののかない強い信仰を持てるとは聖書に書いてありません。私たちは強さそのものを身につけることはできません。
信仰者の強さとは主の強さする。聖書には、
「主により頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(エフェソ6:10)
とあります。神はヨシュアに言いました。
「私はあなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもしない。強く、雄々しくあれ」。
神が共におられる、これが信仰者の強さです。共にいてくださる神様が強いから、信仰者は強いのです。神が助けとなってくださるので、信仰者は強く、雄々しく、潔く行動できるのです。
- 今、あなたは主によって強くなるべきではありませんか。
- 主によって強くされた経験を誰かに話すべきではありませんか。
2.私たちは、何事も愛をもって行おう
次に
「何事も愛をもって行いなさい」
との命令があります。すべてのことを愛をもって行え、との命令です。「何事も」という表現は、見過ごしにできない表現です。聖書には、興味深い文章があるからです。
「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリント一10:31)。
「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(エフェソ5:20)。
「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」(コロサイ3:17)。
まとめると、何をするにしても、神の栄光のために、イエス・キリストの名によって、愛をもって行い、すべてのことに感謝するというのです。ただでさえ忙しいのに、一つ一つのことにどうやって愛を結びつけるのか、どのようにして神の栄光を現すのか、そしてイエスの名によって行うのか。
そんなことを考える暇はない!
と思ってしまいます。食事の準備をするのに、献立を何にするのかでも頭が回らないのに、愛、神の栄光、感謝、とんでもない、と思えます。
これらの神の教えは、私たちにとってはチャレンジです。これらの教えを本気で受けとめるというチャレンジ、そして具体的に実践するというチャレンジです。
最近、つくづく、信仰とは選択だと思わされます。どちらを選択するのか、なぜそれを選択するのか、そこに信仰が現れるのです。日々の生活の中で、私たちは沢山のことを行っています。その一つ一つを愛をもって行う、神の栄光のために行う、祈りをもって行う、すべてに感謝する、なんて不可能に思えます。そこで二つの選択があります。
何だと思いますか。
一つの選択は、そんなの無理といって、すべて投げ捨ててしまうことです。潔いと言えば潔いのですが、ほめられる潔さではありません。何かを愛をもって行うことを考えない・何かを神の栄光のために行うことも考えない。その結果、これらの神の教えが無視されてしまうのです。神様は悲しまれることでしょう。
日々の生活の中で、すべてのことについて愛をもって、神の栄光のためにするのは不可能に見えます。でももう一つの選択があります。まずは一日に一つ、たった一つだけ何かを愛をもって行うことを志すのです。一つから始めるのです。
たとえば家族の健康が支えられるように祈って夕食を作るのです。洗濯物をたたむ時、家族のことを覚えて祈りながらたたむのです。おしゃべりをする時にも愛をもって話すのです。聖書には、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語るのです、と書かれています。
散歩する時は、賛美を口ずさみながら、神様をたたえるのです。通勤の車の中で、職場の人たちを覚えて祈るのです。会議の前には、必要な意見が出され、実りある会議ができるように、参加者のために祈るのです。一つ一つの小さな行動の積み重ねを大切にするのです。
これは難しいでしょうか。どう思いますか?
あなたの思いに注意しなさい。それは行動になります。あなたの行動に注意しなさい。それは習慣になります。あなたの習慣に注意しなさい。それはあなたの人格になります。
無理だからしない、と考える人は、チャレンジしないという性格になってしまいます。できっこないと言わず、まず、一つだけ行うことに心を砕くのです。それを続けるのです。信仰に生きるって、こういうことではないですか。
最初から無理といって投げ捨てるのか、一つ行うことから始めるのか。どちらを選択するか、信仰が問われる大切な選択です。たとえば、これから登る山のあまりの高さに目がくらんで、無理と考えて登らない人もいるかもしれません。でも一歩、一歩、歩き続ければ頂上に着くのです。一歩一歩が、頂上に通じるのです。
ヤコブは、行いのない信仰は死んだに等しいと書いています。小さな行いを忠実にする、それが生きた信仰です。
3.私たちは、教会を愛して生きよう
最後に、
「主を愛さない者は、神から捨てられるがいい」。
強烈ですね。
「神から捨てられるがいい」とは激しい言葉です。私たちは、こんな激しい言葉を言って良いのかと思います。これは熱心に真剣に主を愛する者の言葉です。
教会はキリストの体、教会員は互いにその一部です。お互いに血縁的には他人であっても、信仰に結ばれた兄弟姉妹です。神の家族として互いに愛し合い、大切に思い合う関係です。コリントの教会では、自分の信仰を誇り、信仰の弱い人たちをないがしろにする傾向がありました。教会の中に対立が生まれました。そこでパウロはこの手紙を書いています。
教会における兄弟姉妹の関係を壊すような行為は、主の体をこわし、主を愛さない者なのです。主イエスを愛する人は、教会に連なる一人一人を大切にするのです。その熱い思いが、「主を愛さない者は、神に捨てられるがいい」との言葉となりました。真に主を愛するあまりの言葉です。
もし、この言葉に眉をひそめるなら、私たちは自分たちの不熱心を反省する必要があるかも知れません。現代は、家族が壊れつつある時代です。教会は神の家族として、今こそ存在価値をアッピールできる時代です。神の家族として、互いに愛し合う教会を築いていきましょう。教会の中でも、何事も愛をもって行うことを目標にしましょう。
愛をもってあ-なたは何をしますか。