クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.6.29)
聖書 マ(タイ4:4 神の言葉で生きる

 見ず知らずの人から、あなたはこうすべきだ、こんなことをしてはいけない、と言われた経験がありますか。その時、どんな気持ちでしたか? 余計なお世話よ、あなたにそんなこと言われる筋合いはない、と言いたくなりますね。


 金曜日、ある人が教会に来られて応対しました。鞄から小雑誌を何冊も出し、私が手にとって開くと、色々と話し出しました。説明が長々と続くので、思わず、用件はなんですかと切り出しました。「これよいものなので、買いませんか。○○教会の先生も購入されましたが」。「いりません」。断りました。余計なお世話よ、あなたにそんなこと言われる筋合いはない、と言いたくなりますね。


 イエスは、言います。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。人はパンだけで生きるのではなく、聖書の言葉で生きるものですと語りかけています。あなたも神の言葉で生きていきませんか、と言われたら、どうしますか。

余計なお世話ですか?

 私たち、家族が神を信じ、神の言葉で生きてほしいと願って、礼拝に誘いますが、断られることも多いですね。私たちは、なぜ、神の口から出る一つ一つの言葉で生きようとするのでしょうか。あなたの答えはいかがですか。私たちは、未信者の家族と一緒に、天国を目指すために、神の言葉で生きていきたい、と答えませんか。

1.全くの他人である神と出会ったエジプト王の場合 

 昔イスラエルの民がエジプトの国で奴隷として苦しい生活を送っていた時のことです。イスラエルの民は、苦しい生活からの解放を求めて神に祈りました。神はモーセという人物を選び出し、イスラエルの民を救おうとしました。神はモーセにエジプト王のもとに行き、神の言葉を語るように命じます。モーセは語ります。

イスラエルの神、主が、こう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野で祭りを行わせなさい』と」(出エジプト5:1)。

 奴隷としての働きを休ませ、荒れ野で神を礼拝させなさいとの意味です。これを聞いた時、エジプトの王は言いました。

「主とはいったい何者か。どうして、その言うことを私が聞いて、イスラエルを去らせなければならないのか」(5:2)。

 エジプトの王にとって、イスラエルの神、主は、全く未知の存在。全くの他人。自分とは関係のない存在でした。「主とは何者か、どうしてそのいうことを聞かねばならないのか」。王の気持ちに共感できます。


 まさに見ず知らずの存在から、ああせい、こうせいと言われたのです。エジプトの王からすれば、なぜ、イスラエルの神のいうことを聞かなければならないのか、わかりません。まして自分は王です。人に命令することがあっても、人から命令される理由はありません。自分は王、最高権力者なのです。


 イスラエルの民は、神の民です。神は、イスラエルの民に礼拝をさせたいのです。そこで神はエジプト王に「わたしの民を去らせて、荒れ野で祭りを行わせなさい」と命じます。しかしイスラエルの民はエジプト王の奴隷です。王は、自分のための労働をさせたいのです。


 王からすれば、奴隷になぜ、休みを与えて、礼拝する時間を与えるのか、そんなことをする理由がわかりません。ここにおいて、主なる神と、エジプト王は対立状態に入ります。エジプト王の気持ちはよくわかります。自分の持ち物に他人がちょっかいを出すのですから、不愉快です。


 神はモーセを通して、イスラエルの民を礼拝のために荒れ野に行かせなさいと命じます。王が断るなら、災いをくだすと神は警告します。実際、神はエジプトに災いを下します。怖いですねえ


 エジプト王は災いが来ると「わかった、わかった、民を去らせる」と約束します。でも災いがおさまると心を変えます。やっぱり行かせるの、いや〜だ。そんなことが何回も繰り返されるのです。最終的に、エジプト王は、イスラエルの民を去らせます。主なる神に屈服するのです。


 エジプト王にとって、主なる神は、侵略者に見えたでしょう。自分の国に災いをもたらし、イスラエルの民という奴隷を奪いました。エジプト王は、我が子も亡くしました。王にとってイスラエルの神は、とんでもない存在、全くの邪魔者でした。


 この物語は問いを投げかけます。全くの他人である主なる神とどう向き合うのか。反抗すれば、あるいは無視すれば、それに応じた報いが来るのです。


2.聖書は、私たちに神を紹介し、幸いと警告を与える 

 人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる、と聖書は告げます。聖書なんか知らない、余計なお世話だ、俺はオレ流に生きる。そういう人も多いのです。自分の生き方について、指図は受けたくない、と主張する人だっています。


 礼拝に誘っても来てくれない人も多いですね。来てくれない家族もいます。信仰者が、聖書なしには、人は生きていけないのよ、聖書に従う時、人間らしく生きることができるのよ、と言ったとします。すると、なぜ、聖書に従わなければならないのか、聖書とは何だ、神とは何だ、とエジプト王のように感じる人もいるのです。


 まだ神を信じていないあなたは、人は神の口から出る言葉で生きると言われて、どう感じますか。すでに神を信じているあなたは、人は神の口から出る言葉で生きると言われて、どう反応しますか。


 聖書には、神が憐れみ深く、恵みに満ちた方であると書かれています。憐れみ深い神、恵みに満ちた神に生かされることは祝福だと聖書は教えています。あなたは罪を犯している。あなたは罪人だと聖書は告げます。余計なお世話じゃ! と言いたくなります。わしゃあ正直に生きている! と言いたくなるかも知れません。


 聖書は、正直に自分が罪を犯すものであることを認める時、赦しが与えられ、神の子にされることを告げています。神は、あなたのことをとても愛してくださり、あなたを幸いに導こうとしておられると聖書は告げます。聖書の言葉は、私たちにとって、ありがたい言葉なのです。どうでしょう?


 そして、そのように神を信じ、イエスを救い主と受け入れ、神のみ心に従うなら天国にいけると聖書は約束しています。聖書の言葉に信頼して、それに従って生きることは幸いなのです。聖書を読むことによって、私たちはこれらのことを知ることができます。


 神はエジプト王には、従わない時は災いを下すと警告しました。同じように、聖書も私たちに警告を与えています。イエス・キリストは、もう一度この世界においでになり、人間を裁くと。最後の審判により、人間の最終的な運命が決まる、と聖書は語るのです。


 使徒信条も、キリストは、「生ける者と死ねる者とをさばきたまわん」と告白しています。そのさばきの結果は何でしょうか。人は死んだ後、天国か、地獄か、どちらかに行くと聖書は告げるわけです。クリスチャンになれば、天国は保証されているのか、というと気になる聖書の言葉があります。


「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7:21)。


 イエスに向かって「主よ、主よ」と呼ぶ人は、信仰者です。でも天国に入れるとは限らないとイエスは教えています。ですから、簡単に聖書を無視することはできません。私たち、家族には信仰を持ってほしいと思います。家族にも一緒に天国に行ってほしいです。なかなか礼拝に来てもらえないことが多々あります。それが悩みです。


3.私たちは神の言葉によって生きることを選ぶ

 エジプト王は、神とは何者か、なぜ私がその神に従わなければならないのか、と言いました。私たちが家族を礼拝に誘う時、家族も同じ気持ちなのかも知れません。私たちは自身は教会の礼拝に連なり、説教を聞いたり、自分でも聖書を読んだりしている内に導かれて信仰を持ちました。


 だから、教会に来てくれない家族には、私たちが聖書を紹介しなければなりません。聖書は、神を信じる幸いを伝えています。そのことを私たち自身が、しっかり受けとめ、その幸いを経験することが大切です。そのためにも、日々聖書に親しむことが大切です。聖書は信じない場合の警告も与えています。そのことも伝えなければなりません。


 言葉だけで伝えるのではなく、態度で伝えることも必要です。自分の行いが立派でないので、家族が教会に来ませんという人がいます。そんないいわけはやめましょう。何の役にも立ちません。聖書に生かされる幸いと聖書が告げる警告を伝えましょう。


 私たちはなぜ、神の口から出る一つ一つの言葉で生きることを選ぶのでしょうか。神がいかなる方かを知ることができるからです。神の導きを受け取ることができるからです。導きに従って良かったという幸いを受け取ることができるからです。


 だから、私たちは、聖書から、一つ一つの言葉を受け取り、味わい、感謝して生きることができるのです。その感謝を家族に伝えることができます。私たちはそのことを家族に伝えたいのです。


 私たちは聖書から、神を知り、神を信じて生きる幸いを教えられ、幸いな歩みをしたいのです。しかも家族と共に。死んだ後のことについては、聖書が約束する天国に行きたいのです。家族と共に。


私たちは天国を目指すために、神の口から出る一つ一つの言葉、聖書の言葉によって生きていきたいのです。家族と共に。
祈ります。


祈り


 天の父、聖書が与えられていることを感謝します。聖書を通してあなたを知ることができ感謝します。聖書を通し、あなたの導きを受けて生きる幸いを感謝します。 天の父、あなたは多くの人にとって未知の存在、他人です。全くの他人であるあなたに対してどういう態度をとるのか、それは大切な問題です。エジプト王は、あなたを認めず、あなたに抵抗し、自らに災いを招きました。 聖書は、信じる者の幸いと信じない者への警告が語られています。私たちは大切な家族と共に生きていきたいです。家族と共に天国に行きたいです。

 私たちが聖書に親しみ、神様を信じて生きる幸いを家族に伝えることができますように。共に天国に行きたいと伝え、家族のために祈り続けることができますように。今、神様を求めて礼拝に来ている方たちに対して、あなたが親しく導き、信仰に招いてください。