クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.10.25)
聖書 フィリピ 4:4〜7 思い悩みから解放されて生きる恵み


 ある本にこんなことが書かれていました。

「老後を幸福に暮らす条件は住居、経済、健康、生き甲斐が整えられていることだ」。

 住居にしても、場合によっては、施設に入ったり、子供と同居したりと、住み慣れた家を離れることが生じます。病気になれば健康が損なわれます。年を取ると、耳が遠くなり、目がよく見えなくなり、足は衰え、生き甲斐も失われていきます。経済もゆとりのある人は多くはないと思います。老年期は、まことに頼りない時期ということができます。


 心配事は尽きないのです。もちろん、老後の生活は人それぞれで、困難が多い人もいれば、恵まれた老後を過ごすことのできる人もおります。本屋には、老いのコーナーがあり、いかに老後を生きるか、という本が沢山並んでいます。自分はこのように生きていると人を励ますものもあります。最初に述べた四つの条件を満たしている人が書いたのかも知れません。


 私の好きな作家の南木佳士さんは、こんなことを述べています。

「出来事は起こる時には起きるのであり、それはそれでありのまま引き受け、黙々と淡々と処理するしかないのだと開き直れる年齢まで生き延びてしまった」。

 老いの時期には、このような開き直りも必要なのかも知れません。


 私たちは、信仰を杖として老いの時期を歩もうとしています。「信仰こそ旅路を導く杖」と讃美歌にもあります。信仰の杖というのは、若い時から、磨き、丈夫な杖に育てることができます。しっかりした信仰の杖を持ちたいものです。今日のテーマは、「思い悩みから解放されて生きる恵み」です。


1.神の平和が約束されている 

「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」(6節)。

 思い煩うのを止めなさい、無茶な命令に思えます。止めようと思って止められるなら、苦労しないよ、と皆さんはいうかも知れませんね。心配するのを止めようと思ってもつい心配してしまいます。だから思い煩うわけですよね。


 聖書は、心配する代わりにすべきことを教えてくれます。

「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。

 祈るのです。何もしないと心は思い悩み、心配しますから、祈りなさいと聖書は教えます。感謝を神に申し上げます。続いて「祈りをささげる」とあります。なぜ心配しているのか、思い悩むのか、神様に告げるわけですね。そして「願いをささげ」とありますから、神にして欲しいことを願うわけです。「求めているものを神に打ち明けなさい」とありますから、こうして欲しいと自分の願いをはっきりと神に知らせるわけですね。要は、心配する代わりに祈るのです。


 するとどうなるのでしょうか。

「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(7節)。

 心配事が起きると、まず「心」が動揺します。心配だ、どうしようと心が騒ぎます。そういう感情が湧いてきます。それを静めようと、あれこれ考えるわけですね。そして困ったぞ、どうしていいかわからないと考えて、心はますます心配になります。しかし、祈ると、心と考えが守られると約束されています。


 何から守られるのでしょうか。思い悩み、心配から守られるのです。心配だという感情が静まり、大丈夫なんだ、心配しなくていいんだと考えるようになるわけです。イエス・キリストの助けによって、人知を越える神の平和が心を満たすというのです。


 ここで「人知を越える神の平和」とあります。人知を越える平和ですから、経験によってそれがどんなものか理解できます。


 私の妻は若い頃病気になり、ひどい痛みに悩みました。医者からよく我慢したねと言われるほどの痛みに耐えたのです。妻はその痛みの中で、十字架につけられた主イエスを思った時に、その痛みは軽くなったというのです。人知を越える神の働きと言えます。

  • 神の平和は不思議な仕方で訪れることがあります。祈った結果、平安が与えられた時、人は不思議だというのです。どうしてそうなるのかわからない。でも与えられるのです。
  • あるいは、神の平和は、神が与える確実なものとして訪れることもあります。訪れた平安があまりにも深く、ちょっとしたことでは崩れないような平安なのです。私たちの心は一喜一憂しますが、確かな、揺るがない平和なのです。
  • 祈ることによって私たちの心が変えられ、神の平和が訪れるのです。


 パウロは、4節で「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」。これも無茶な命令に思えます。しかし、思い煩わなくて良いのだ、喜べるのだと述べています。


 私たちは、実験をすることができます。心配事が来たら、恐れや不安が訪れたら、この聖書の言葉を実行するのです。神の平和がどのように訪れるのか。私たちは人生で直面する問題、悩みから逃げてはいけません。人生こんなものとあきらめたり、問題はないのだと自分をごまかしてはいけません。神の平和が来る、と約束されているからです。この実験を信仰と呼びます。

  • 信仰とは、神の約束を信じることです。
  • 信仰とは、約束を必ず実現する神の真実を信じることです。


2.神の平和を与えられた人 


 神の平和を与えられた人がいます。その名はハンナ。旧約聖書サムエル記上1章に登場します。エルカナという人に二人の妻がいました。ペニナとハンナです。ペニナは子供を生みましたが、ハンナは子を授かりませんでした。夫エルカナの心はハンナにありました。ペニナは、ハンナに嫉妬し、彼女を憎み、苦しめます。ハンナはひどく苦しみました。


 ある時、ハンナは、神殿で心を注ぎだして祈りました。祈り終わった時、彼女の表情は、前とは違っていたと書かれています。神の平和に満たされた表情になったのです。


 イスラエルの国はソロモン王の後、北のイスラエル、南のユダに分裂しました。南のユダにヨシャファトという王がいました。歴代誌下20章です。彼の治世に、モアブ人とアンモン人がヨシャファトに対して、戦いを挑んだのです。しかも大軍です。迎え撃つ力がなく、王は恐れにとらわれます。しかし彼は、神を仰ぐのです。民を集め、断食し、祈るのです。

「わたしたちの先祖の神、主よ。あなたは天にいます神、異邦人の国をすべて支配しておられる方ではありませんか。御手には力と勢いがあり、あなたに立ち向かうことのできる者はいません」(20:6)。

 神様への信仰を言い表しています。さらに

「わたしたちには、攻めて来るこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」

と事情を説明します。そして

「苦悩の中からあなたに助けを求めて叫びます。あなたはそれに耳を傾け、救ってください」

 と助けを求めます。すると神は、一人の人を通して語るのです。

「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。明日敵に向かって攻め下れ」。

 こうして、恐れは、勝利への期待に変えられていくのです。思いがけない方法で、神は励ましの言葉を語られたのです。ヨシャファトはひれ伏し、神を礼拝しました。彼の心は平安に満たされていたことと思います。


 忘れてならないのは、主イエスです。十字架にかかる前の晩、主イエスは、ゲッセマネの園で祈っていました。主イエスは苦しみもだえ、切に祈っておられました。汗が血の滴るように地面に落ちたとあります。

「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけて下さい。しかし、私の願いではなく、御心のままに行って下さい」(ルカ22:42)。

 主イエスは十字架を前にして、避けることができるのなら、十字架を避けさせて下さいと祈ったのです。十字架の死を明日死ぬと思った時、だれが平安でおれるでしょうか。主イエスも苦しんだのです。祈る時は苦しみもだえたのです。しかし祈り終わった後、主イエスの心ははっきり定まり、心に迷いはありませんでした。十字架の道を目指すのです。神の平和は確かに私たちに訪れるのです。


3.信仰の試金石としての神の平和 


 思い煩いから解放されることをあなたは信じますか。主イエスは言っています。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」(ヨハネ14:27)。主イエスは、平和を与えると約束します。神の平和です。


「思い煩うのは人間の性質、神の平和は求める気にはなれない」とあなたが言うなら、あなたは不信仰の罪を犯しています。あなたがどう考えるか、どう信じるかは、あなたの自由です。しかし、あなたがイエス・キリストを信じていながら神の平和の約束を真剣に受け取らないなら、それは不信仰の罪です。神は、恵みとして、平和を与えると約束しておられるからです。


 どうしても信じられないなら、こう祈るべきです。

「わたしを憐れみ、助けて下さい」、「信じます。信仰のない私をお助け下さい」(マルコ9:24)。

 イエス・キリストは十字架で死に、復活しました。この出来事は、私たち信仰者に深く関わる出来事です。主イエスが十字架で死んで復活したように、罪人としての私が死に、神の子として私たちは新しくされるのです。これが福音です。


 神の約束を信じ、信仰をもって生きる人間に生まれ変わったのです。思い煩わずにはおれない、それは罪人としての古い人間です。キリストを信じる者は、新しく生まれ変わったのです。


 心配する代わりに祈り、神の平和をいただく、それが信仰者です。神の賜る平和を期待する、それがキリストを信じる信仰者です。信じる者には、神の平和が与えられるのです。信仰の杖を磨き、育て、老いの時期を歩んでいきましょう。


祈ります


 神様、信仰の足りない私たちを憐れみ、助けて下さい。私たちの心は、色々な心配で押しつぶされそうになり、どうしたらいいかいくら考えても良い知恵は浮かばず、打ちのめされるばかりです。
 あなたに祈り、気持ちを打ち明け、神の平和を求めることができるように、励まして下さい。ゲッセマネの園で切に祈られたイエス様に倣う者とさせて下さい。信仰の杖をしっかり握って歩むことができるように助けて下さい。イエス・キリストのみ名により祈ります。