クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.2.7)
聖書 コリント二4:16〜18 神に心を向ける(1)


 行き詰まり、というと切羽詰まってもうどうしようもないことを思い浮かべるかもしれません。これは人の助けを求め、すぐに何とかしなければなりません。

  • すぐに何とかしなくてもとりあえずは生きていける、だからそれほど深刻には考えない行き詰まり、
  • マンネリ化した生活の中で、人生こんなものと思う中に隠れている行き詰まり、
  • 私たちが見ようとしない行き詰まりがあります。
  • 私たちの人生から喜びを奪い、生き甲斐を奪い、生きにくさ、ストレスを与えるような行き詰まりがあります。

たとえば

  • 仕事がうまくいかない、やりがいがないとか、
  • 家庭や職場での人間関係がうまくいかない、
  • ストレスを感じるとか、孤独で寂しいとか、
  • 生き甲斐に乏しく惰性で生きている、空しいなど、

 切羽詰まっていないけれども、行き詰まっている、でも何とか生きていける、そういう行き詰まりもあります。私たちが無力さや限界を感じる時、それは私たちが心を神に向ける時、神から自由を受け取る始まりと言うことができます。霊的成長の第二のポイントは、こうでした。

「自分を超えた者、神に心を向けた。神、永遠、目に見えないものとのつながりを感じた。それでもなお自分を生かしてくれているものについて気づくことができた。神の愛を体験的に知ることができた」。

 アルコール依存症の人たちは、12ステップという段階を通ることによって、お酒を飲まない生活に導かれます。アルコールに対する自分たちの無力さを認めた後、次の段階は、自分を超えた大きな力が、私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった、です。ここで戸惑いや抵抗を覚える人がいます。いきなり、自分を超えた大きな力、つまり神を信じるということが言われるからです。ただ「自分を超えた大きな力」と言うことによって、特定の宗教を押しつけることはしていません。


 12ステップは一つの提案であり、押しつけるものではないので、まあ一緒に12ステップの内容を学んでいきましょう、と勧めがなされます。聖書が告げる神は、私たちに自由を与える神です。行き詰まりからの解放を与える神です。聖書の神は自由を与える神であることはお伝えしたいと思います。

 コリントの信徒への手紙を読んでいただきました。この手紙の最初に、パウロは、「私たちがこうむった苦難について、是非知って欲しい」と書いています。

「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました」(1:8)。

 生きる望みを失う、これは完全な行き詰まりです。続いて

「わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」(1:9)。

 死の宣告を受ける、つまりもうどうしようもない、という状況です。完全な行き詰まりです。パウロは、イエス・キリストを宣べ伝えるために、イスラエルからギリシャまで地中海沿いに歩いて伝道しました。そして様々な困難、苦難を味わっています。

ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(11:24〜27)。

 これだけの苦難を味わいながら、なおキリストを宣べ伝える働きを継続するというのは、驚きです。そんな困難、苦難を味わいながらもパウロはキリストを宣べ伝えてきました。そのパウロがこの手紙で「生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いでした」と述べます。


 このパウロの行き詰まりは私たちの思いを越えるものです。パウロの活動を見ると、困難に直面し、助けを求めて神に祈ると神はその困難から救ってくれるという場面が使徒言行録には記録されています。ですから、パウロは、いつも神に祈り、神に信頼し、必要なら助けを求めて、活動をしてきたのです。そのパウロが、「生きる望みを失い、死の宣告を受けた思いでした」と語る時、この行き詰まりは、深刻です。神を知らない人が、行き詰まって絶望したのではないのです。神を知っているパウロが絶望したのです。


 神に信頼し、神に助けを求めることを習慣としていたパウロが、あたかも神に見捨てられたかのように神からの助けを得ることができないのです。神が助けることを拒んでいるかのようなのです。神に見捨てられた行き詰まり、これはどうしようもない、本当の行き詰まりです。絶望的な行き詰まり、これをパウロは経験しているのです。そこでパウロはどうしたのでしょうか。

「それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました」(1:9)。

 神に拒まれたように思えても、パウロはなおも神を信頼します。死者を復活させてくださる神を頼りにするというのです。不可能を可能にする神に助けを求めていくのです。他の人だったらあきらめてしまうかもしれないのに、なおパウロは神に助けを求め、そして助けを与えられます。

「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、わたしたちは神に希望をかけています」(1:11)。

 神に希望をおくパウロがいます。

 マタイ15章に、カナンの女と呼ばれる女性が登場します。彼女には、悪霊につかれた娘がいます。たまたまイエス様が、自分の住む町に来たと知り、イエスのもとに出かけ、助けを求めます。

「主よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」

と叫びます。イエスはどうしたでしょうか。なんと知らん顔です。弟子たちが、うるさいのでこの女を追い払ってくださいとイエスに頼みます。するとイエスは、

「私はイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」

と言います。カナンの女はイスラエル人ではありませんので、イエスは、このカナンの女は、私とは関係がないと宣言しているようなものです。さらにこの女性はイエスにお願いするのですが、

「子供たちのパンをとって、小犬にやってはいけない」

と答えます。イエスは繰り返し、この女性の願いを断っているように思えます。道は閉ざされました。この女性は行き詰まります。ところか彼女はあきらめません。

「小犬も食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。

するとイエスは、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言って、彼女の娘を癒されます。とても励まされる物語です。

 私自身の行き詰まりについてもお話ししたいと思います。私の行き詰まりは生活の困難ではなく、心の問題でした。私の行き詰まり、それは死の恐れと空しさです。死をどう受けとめるか、本をいろいろ読みました。空しさに対しては、やりがいのありそうなことに挑戦しました。でも解決はありません。そして最後に、自分の命を賭けても惜しくない、そのような事柄に関わって生きていきたい、そんな願いを持ちました。そのためなら、死んでもかまわない、そのような事柄に関われば、死に勝利できる、そんな願いを持ちました。神はまだ信じていませんから願いをもっても、別に祈ることはしませんでした。心の中の密かな願いです。


 人生に意味があり、生きる価値があるとも思えませんでしたので、生きることが苦痛に思えましたが、耐えられないほどの苦痛ではなく、成り行きで、惰性で生きていました。思いがけなく人から教会に誘われ、時間はかかりましたが信仰を得、さらに牧師になるように導かれ、若い日に願った願いを神が聞き届けくださいました。


 私の場合、自分の方から、行き詰まりに対する解決を神に求めたわけではありません。しかし神が人を介してわたしを教会に導いてくださった時、それに応じて、私は教会に通うようになりました。そして救いを得たわけです。若い日に密かに願った願いを神は顧みてくださいました。私は神に目を留めてもらっていることを感じます。


 牧師になってからも、行き詰まりを経験しました。わたしに落ち度があったのだと思いますが、ある人から責められ続け、私は彼に恐れを感じました。日曜日になると顔を合わせます。それが辛くて、強いストレスを感じました。あともうちょっとで心が折れてしまうという時に、神が助けの御手を差し出してくださいました。神の憐れみ、神の愛を感じます。責められたおかげで、私は自分の無力さと限界に気づき、神から自由を与えられました。

 行き詰まりに気づくことは幸いなことです。行き詰まりに対する見方を変えることもできます。

「わたしたちの一時の軽い艱難は、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます」(17節)。

 パウロは現実の困難ではなく、別なものを見ているのです。目に見えないもの、神、永遠を見ているのです。キリスト者の将来を見ているのです。パウロはこの4章でこう述べています。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8〜9節)。なぜ彼は、行き詰まらず、失望せず、滅ぼされないのでしょうか。

「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために」(10節)。

 イエスは人々を救うために苦しみを受け、さらには十字架で死にました。パウロの苦しみはイエスの苦しみを味わうことに他なりません。しかしその苦しみを通してパウロは、イエスの命が現れるのだ、と述べるのです。普通の人なら、それほどの苦しみを味わうなら、もう伝道をやめてしまうでしょう。なぜパウロが続けることができるのか。イエスから命を与えられているからです。私たちの行き詰まりや苦難を通して、イエスの命が現れることができるのです。自分の身を通して、イエスの命が現れるというのです。別な言い方をするなら、神に生かされていることが露わになると言うことです。これは光栄なことです。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです」(18節)。

 見えないもの、それは神であり、私たちに与えられる命です。この神に私たちは生かされるのです。この命、イエスの命に私たちは生かされるのです。行き詰まり、それは神の命が私たちのうちに輝き始めるきっかけなのです。行き詰まり、それは私たちが心を神に向ける時、神から自由を受け取る始まりの時です。

「自分を超えた者、神に心を向けた。神、永遠、目に見えないものとのつながりを感じた。それでもなお自分を生かしてくれているものについて気づくことができた。神の愛を体験的に知ることができた」。

これが成長の第二のポイントです。祈ります。

祈り

天の父、あなたがおられる、どんなに幸いなことでしょうか。どのような行き詰まりの中にあっても、希望の光を見いだせることができる、うれしいです。
天の父、行き詰まりの中にある人たちが、あなたに心を向けることができますように導いてください。あなたによって光を見いだし、あなたによって解決を与えられた人たちが、その喜びを周りの人たちに伝えることができますように導いてください。
また気がつかずにいる行き詰まり、見ないようにしている行き詰まりに気がつき、あなたから希望をいただくことができますように。今一度正直に自分の歩みを振り返り、必要なら、あなたによる解決をもとめることができるように導いてください。イエス・キリストの御名により祈ります。