クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2010.5.16)
聖書 使徒言行録 1:1〜11 聖霊の約束

 人類の歴史はどこに向かっているのでしょうか。そんなのわからないと言う方もおられるでしょう。あるいは破滅が待つ終末に向かっていると言う人もいるかもしれません。聖書は、神の国だと述べています。


 聖書が伝える救い主、そして私たちの救い主イエス・キリストは十字架で処刑されて死にました。そして三日目に復活したと聖書は告げています。今日の聖書には

「イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し」

(3節)とあり、イエスは復活し、生きておられることを多くの証拠をもって使徒たち、つまりイエスの弟子たちに示されたとあります。「使徒」というのは遣わされた者という意味です。「数多くの証拠」とは具体的に何かは、よくわかりません。

  • 使徒言行録の著者であるルカの書いたルカ福音書の最後の部分で、復活したイエスが弟子たちに2回聖書の話をしています。
  • あるいは弟子たちと一緒に食事をして、ご自分であることを弟子たちに確認させています。
  • この使徒言行録でも、「四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」とあります。

 イエスが40日間弟子たちと一緒にいたのか、それとも40日の間に、何回も何回も弟子たちの前に現れたのかわかりませんが、弟子たちは、イエスが復活したことを認めざるを得なかったのだと思います。そのことが「数多くの証拠をもって」という言葉で言い表されています。


 復活したイエスは、40日にわたって弟子たちに現れ、神の国について話されたとあります。マタイ、マルコ、ルカ福音書において、神の国のたとえをイエスは何回も話されています。復活後のイエスが弟子たちにどんな話をしたのかは記録されていません。ただ神の国について話されたとだけ書かれています。またこの使徒言行録の一番最後には、こう書かれています。

パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒言行録28:30-31)。

 イエス・キリストを宣べ伝えた伝道者パウロローマ帝国の都ローマに行きました。その彼は「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」とあり、彼もまた神の国を宣べ伝えたとあります。イエスパウロ神の国を語る時、具体的にどんなことを語ったのかと考えます。


 復活されたイエスは弟子たちに聖書全体から話をしています。つまり聖書は何を大切なこととして語っているのかをイエスは語ったのであり、それは神の国を語ることだったと言えるのではないかと考えます。聖書全体のテーマは、神の国だとイエスは語ったのではないかと推測します。そしてパウロ神の国を語りました。そしてイエス・キリスト抜きに神の国を語ることはできないので、パウロは「主イエス・キリストについて教え続けた」と使徒言行録の最後に書かれていると私は思います。


 聖書には人類の歴史を語るという側面があります。まず歴史の始まりとして神が世界を造られ、さらに人間を造られたとあります。神は人間が愛し合い平和に生きることを願っておられるのですが、人間は自分中心に物事を考え、他者と争い対立し、傷つけ合い、殺し合う生活をしています。それは個人レベルでも、国家レベルでも行われています。人間を造られた神にとってはまことに残念なことです。


 そこで神は、人間が愛と平和に生きることができるように、人間を導こうとされたのです。別な言葉で言うと、人間を救おうとされたのです。つまり人間のうちにある罪が、人間を自己中心にさせ、争い、命の奪い合いを行わせているので、人間を罪から救うことを神は行われるのです。そこで神は何をされたかというと、神の民を選ばれたのです。

「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」(申命記7:6)。

 イスラエル民族は神に選ばれた民となりました。神にとって宝の民、神に愛される民です。彼らは神の戒めを与えられ、それを守り、神に祝福された歩みをするように神に期待されたのです。そうすれば、彼らの周りにいる民族も神を知り、神を礼拝し、神に従う、祝福される歩みをすることが期待できます。神は、神を信じる者を選び、その者を通して、多くの人が神を知ることを願われたのです。しかしイスラエル民族は神の期待に応えることができませんでした。

  • 彼らは神を知っていたのに、神の教えに従うことができなかったのです。神を敬うことをせず、神の教えを守ることをおろそかにしたのです。
  • 自分の考えと自分の思いに従って生きたのです。結果的に神を無視し、神に逆らうような歩みをしたのです。


 イエスは、救い主として誕生し、十字架の死を遂げ復活されました。十字架の死こそ、罪の根本的な解決でした。イエスによって救われ、イエスを信じる人は、罪を克服して生きることができるようになりました。彼らは、神の子供とされ、神の子として生きることを誇りとし、神を畏れ敬い、神に従う人となります。


 今や、教会が、新しい神の民となったのです。教会は民族の壁を越えて建設されました。イエス・キリストが宣べ伝えられるところに教会ができ、神を信じて生きる人々、神の教えに従って生きる群れが誕生しました。神を畏れ敬う人々がいるところ、それが神の国です。神様の御支配がそこにあるからです。イエスは、

神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」

と語りました。そして病気で苦しむ人をいやし、神は本当におられるだけでなく、人を救うかたであることを人々に知らせたのです。


 神を信じる者たちの群れ、そこには愛があります。平和があります。なぜなら、神を信じる者たちは、互いに愛し合うことを教えられ、それを一番大切な戒めと受けとめているからです。そして愛することを喜び、愛されることを喜ぶのです。そして争いを解決し平和に生きることを喜ぶのです。だから、互いに赦し合うことを学び、争い、対立を解決して平和を大切にしています。


 教会は、神様が御支配する神の国です。正確に言えば、神の国の前線基地です。私たちが住んでいるこの世界は、争い対立が満ち、神の支配がない世界です。そこに教会が、神の国の前線基地として存在し、イエス・キリストが宣べ伝えられるところに教会が誕生し、神を信じる群れが誕生します。このようにして国境を越え、世界中に神の国の前線基地である教会が誕生しています。


 人類の歴史において、罪の中にある人々が救われ、愛と平和に生きる信仰者の群れに参加し、この世界に神の御支配が広く及ぶようになるという神の救いがなされていきます。これが歴史の中心的な出来事です。歴史の中では色んな出来事が起きますが、人々を救う神の業、これが歴史の中心を成しています。この神の業を教会が担っています。信仰者が世の光、地の塩として生きるのも世の人々が神を崇め、救われるためです。さらに教会はこの世に向けて愛と正義を行うように働きかけていきます。働き人を世に送り出します。


 今日の聖書の最後にこうあります。

ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(11節)。

 イエス・キリストが再びこの世界においでになる時、それは歴史の終わりの時であり、神の国が完成する時だと聖書は語るのです。歴史は神の国を目指しているのです。このことを復活したイエスは語り、パウロも語り、教会の使命を語ったのだと推測します。

 イエスは言います。

「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(8節)。

 イエスは、弟子たちの上に聖霊が降ると約束し、聖霊が降ると力を受けると語ります。さらにイエスの証人となるとあります。弟子たちは、力を受けてイエスを宣べ伝える人になるというのです。聖霊が降ると、弟子たちは、力を受けて、イエスの働きを継続することになります。使徒言行録には、イエスの弟子たちが地の果てを目指してイエス・キリストを宣べ伝える働きが書かれています。弟子たちは、イエスの働きを受け継ぎます。

  • エスを宣べ伝え、人々を新しい神の民となるように招くのです。教会という神の民の群れに人々を呼び集めるのです。
  • そして愛と平和の満ちた教会、信仰者の群れを築くのです。教会からこの世界へ、愛と平和が流れていくのです。神の国の前線基地を拡大していくのです。

 そのためには聖霊の力が必要なのです。イエスのことを直接的に知っているだけではイエスのことを人々に伝えるのには不十分なのです。聖霊の導きを受けて語られた言葉が人々を動かし信仰に導くのです。


 現代では、牧師が礼拝の中でイエス・キリストを宣べ伝えます。そして信仰者が誕生します。

  • それは牧師が上手に語った結果ではありません。
  • 感動的に話をした結果ではありません。
  • 牧師が語る時、聖霊が働き、神が語られたかのように聞く人々の心に届きます。神の語りかけと受けとめる時、聞いた人の心に信仰が生まれます。


 だから弟子たちは、聖霊が降るのを待つのです。使徒言行録の2章で、聖霊が降るのを祈りをもって待っていた弟子たちに聖霊が降ったと書かれていて、そこから弟子たちの伝道が始まり、今日世界の多くの地域に教会ができるようになりました。それは聖霊の働きです。弟子たちは聖霊を待ち望むのです。聖霊を待ち望む、そこに力強い信仰の働きの出発点があるのです。


 私たちは歴史の中で生きています。歴史は神の国を目指し、教会もまた神の国を広めるために活動をしています。生きるとは、神の国を目指すこと、それが聖書の語る中心です。ここに生きる真の意味があります。イエスの弟子たちは、そのために聖霊を待ち望みました。


祈り

 天の父、あなたを崇めます。イエスの弟子たちに聖霊を注ぎ、彼らを力強い証人、伝道者としてあなたを賛美します。彼らの働きを受け継ぐ人々を次々に起こし、この日本まで、金沢の地まで福音を宣べ伝える人が起こされ、私たちは信仰に導かれました。
 神様の御支配が全地に及ぶようにと教会はその働きをしています。教会に集う人々が愛し合い、赦し合い、愛と平和の教会を築き、愛と平和、そして正義の大切さをこの世に訴え、そのための働き人として私たちは世に遣わされます。私たちもまた聖霊の力を受けて、働きをすることができるように導いてください。IX。