クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 今日は、午後は弟子コース。テーマは、人の徳を立てる言葉を語ること。今日は最初なので、どんなことに気をつけて人と話をしているのか、を分かち合った。人を傷つけたり、傷つけられたりの経験を皆している。人は言葉をもって罪を犯す面が多い。

悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。エフェソ4:29。

 暗唱聖句は、

善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出し、悪い人は悪いものを入れた倉から悪いものを出す。人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。ルカ6:45。

 参加者皆、暗唱の努力をしてくる。暗唱に慣れたのか、だんだんスムーズに暗唱する。敬意を表する。人が語る言葉はその人の心を反映している。信仰の成熟と共に、悪い言葉が口からでなくなり、聞く人に恵みを与える言葉が語ることができるようになる。味わい深い聖句だ。


 夜は、明日の「五つの目的」の学びのための準備。『人生を導く五つの目的』(リック・ウォレン著)の学びも終わりに近づいた。第五番目の人生の目的はキリストを宣べ伝えること。読んでいて、心が奮い立ち、伝道の思いを新たにした。素晴らしい本である。若い時に出会っていたら、という思いはあるが、今、出会ったことを喜んでいる。夕方からぶどう園で働いた労働者、僕は五時から牧師と自称している。


 心が奮い立つ時は無性に音楽が聴きたくなる。今日は、バックストリート・ボーイズの Millennium を聞いている。以前見たドラマ『彼女たちの時代』は、このアルバムから何曲かをBGMとして流していた。それでこのCDを買った。このドラマは、1999年放映。今から10年も前になる。そんなに時が流れたのかと思う。

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信仰者は、なぜ神の戒めを守るのか。

「敵をも愛しなさい、迫害するもののために祈りなさい」

という命令を聞くと、

「無理です」

と答えるクリスチャンは少なくない。そしてこの命令は守ることができないと割り切り、守ることができる教えとそうでない教えを区別することがある。クリスチャンはなぜ、神の教えに従おうとするのか、これは重要な問いである。


 レビ記民数記を読んでいて、信仰者のアイデンティティーということを考えさせられる。今朝読んだ民数記にはこう書かれている。

あなたたちは、わたしのすべての命令を思い起こして守り、あなたたちの神に属する聖なる者となりなさい。わたしは、あなたたちの神となるために、あなたたちをエジプトの国から導き出したあなたたちの神、主である。わたしはあなたたちの神、主である。(15:40〜41)

 神の方から、あなたたちの神となるという。そのためにイスラエルの民をエジプトの国から導き出したと言う。そこでイスラエルの民に問われることは、「あなたを神とします、神の民となります」と答えるか、「あなたが私たちの神となるのはあなたの勝手です。私は私のしたいように生きていきます」と答えるか、である。つまり、「私」とは何者なのか。神の民として生きていく者なのか、神の民とはならず神との関わりなしに生きていくのか、「私」は何者なのか、という問いが重要になる。神は、神の民として生きていくようにと語る。命じる。


 僕は日本という国に生まれ、男として生まれている。「あなたは何者か」と問われたら、その一つの答えは「日本人です。男性です」。体と心が感じる性が異なる人がいる。身体は男なのに心では自分は女だと感じる、またその逆もある。こういう感じ方を性同一性障害と呼んでいる。性に関して自分が自分でないと感じるというのである。


 信仰者は確かなアイデンティティーを持たなければならない。そしてそのアイデンティティーの通りに生きる時、自分が自分であることに喜びと平和を感じる。


 信仰者とは何か。イエス・キリストを信じる者、イエス・キリストを主とする者、義とされた者、新しく生まれた者、神の子、神に愛されている者、神から賜物を与えられている者、・・・。信仰者はなぜ、神の教えを守るのか。それは、クリスチャンとしてのアイデンティティからして、自然なことだからである。神の子なら、父である神の教えに従うのは、極めて自然なことである。クリスチャンとしてのアイデンティティーを受け入れることは何よりも大切なことである。


 そして信仰者は、このアイデンティティーに生きるように招かれているのである。ハイデルベルク信仰問答は、神の戒めを守る理由をこう述べている。罪が贖われ、聖霊によってキリストのかたちへと生まれ変わったので、この恵みに感謝して、そして神を賛美するために神の教えを守る。さらには、神の戒めに従い、実りを得て、隣人をキリストに導くためと述べる。


 信仰の成長を考える時、信仰者のアイデンティティーがキーワードになると感じている。