クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.7.8)
コリント一8:1〜6 信仰者の自由

 今日の聖書は、異教の社会の中にあって、どう他宗教と関わって生きていくかを語っています。自分のよしとするところに従えばよい、ということですが、自分の行動の影響とその行動が神の栄光を現すことになるかどうか考える必要がある、それが結論です。

8:1 偶像に供えられた肉について言えば、「我々は皆、知識を持っている」ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。

8:2 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです。

8:3 しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。

8:4 そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。

8:5 現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、

8:6 わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。

「偶像に献げられた肉について言えば」(1節)。

 コリント教会の人々は、パウロに手紙で問い合わせたのです。偶像に献げられた肉を食べるとは、どういう場面で起きることなのか、具体的なことは分かりませんが、「偶像に献げられた肉」を食べる機会が多かったのでしょう。たとえば人と食事をしたり、人を食事に招待したりされたりする時、レストランを利用します。レストランと宗教施設が密接に結びついていて、食事をするとそこに、偶像に献げられた肉が出てくるのです。神殿に献げられた肉を食べることは避けられないのです。どう対処するか、です。

「『我々は皆、知識を持っている』と言うことは確かです」(1節)。

コリント教会の人々は手紙の中で「我々は皆、知識を持っている」と書いてきたのです。「確かです」とパウロは述べ、コリント教会の人々の持っている知識が正しいものと認めています。どんな知識なのでしょうか。神は唯一の神しかいない、ということです。

「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない事を、私たちは知っています」(4節)。

人々が肉を神々に献げているにしても、そんな神々は存在しないのだというのです。

「現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても」(5節)。

コリントの町中に、偶像がまつられているのです。「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ」(6節)。神は、唯一の神しかおられないのです。

 人々は神々を礼拝します。主と崇めます。それらの神は偶像で、語ることも、動くこともできません。何の力もないのです。そういうものに献げられた肉を食べたからと言って、別にどうということもないのです。

 8節には

「食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」。

偶像に献げられた肉を食べても食べなくても、それは、どっちでも関係ないのです。クリスチャンには偶像に左右されない自由があるのです。

でも注意が必要です。

「知識は人を高ぶらせる」(1節)。

 信仰者は自由です。偶像に献げられた肉を食べてもかまわないのです。偶像はいないし、何の力もないとの知識があるのです。

「偶像に献げられた肉を食べていいかどうか悩んでいるんだって?」

「何で悩むの? 我々は自由なんだよ」

と人に語る時、高ぶりがなければ幸いです。信仰が弱く、あるいは知識が少なく迷っている人に対する影響を考慮しなければなりません。

「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(2節)。

これは警告です。さらにパウロは、「愛は造り上げる」と言います。
「造り上げる」という言葉は、家を建てる、という意味の言葉です。パウロは、教会を築くという意味で用いています。パウロは、大切なのは、正しい知識で行動できることよりも、教会を建てることなのだ、と言うのです。教会には様々な人が集います。その行動が互いに影響を与えます。信仰者は自由だからといってする行動が、教会を建てることの妨げとなってはならないのです。

「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい」(9節)。

「あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)。愛の大切さをパウロは根底に置いているのです。
 私たちの場合は、仏教、神道の行事に囲まれています。クリスチャンとしてどう行動すべきか、課題です。

 基本的には、私たちは自由で、どう行動してもよいのです。ですから、

  • まず良心にやましさを覚える行動は避けます。
  • クリスチャンなのにああいうことをしていいの、と誤解を招くような態度も避けます。-どう振る舞ったらよいかを聞かれた時は、丁寧に配慮を持って答えることが大切で、相手に、知らないことに恥を覚えさせるような答え方は避けます。

 知識の上に愛を加えることが大切です。知識も大切です。知るべきことを、知らないことを知って謙遜に学ぶことは大切です。