クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2007.9.9)
コリント一10:14〜22 偶像礼拝を避けなさい

10:14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

10:15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。

10:16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。

10:17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。

10:18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。

10:19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。

10:20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。

10:21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。

10:22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。

 今日の聖書は、私たちに

「偶像礼拝を避けなさい」

と命じています。偶像礼拝とは何でしょうか。そもそも「偶像」とは何なのでしょうか。

偶像とは、「自分を幸せにしてくれるもの」とあなたが考えるもの

のことです。偶像をギリシャ語ではエイドウロン。英語ではアイドルと言います。

 アイドルといえば「追っかけ」という言葉を思い出します。アイドルのいるところへ自分も行くのです。若い人もおばさんも。アイドルに夢中になる時、幸福を感じるんです。これは有名人を偶像とする例です。

 富があれば幸せと考える人は、富が偶像。名誉、地位があれば幸せという人は、名誉や富が偶像。自分を幸せにするのは自分の努力と考える人は。自分が神。これも偶像です。
偶像礼拝がなぜいけないのでしょうか。

「偶像を形づくる者は皆、無力で/彼らが慕うものも役に立たない」(イザヤ44:9)。

偶像が幸せをもたらすのは、一時なのです。偶像に裏切られる時が必ず来るのです。

 それなりの年齢のご婦人が韓国のスターを追いかける。家に帰れば、夫がいて現実に戻るのです。富、地位を得るためにすべてのものを投げ出して働いても、家族から見放されることがあります。麻薬。一時幻覚を与え幸せな気分にしますが、さめれば、現実に戻るのです。偶像は、私たちを幸せにはしないのです。

 聖書によると二つのパターンの偶像礼拝があることがわかります。モーセ十戒の第一戒。

「わたし以外のものを神としてはならない」(出エジプト20:3)。

イスラエルの人にとっては、彼らを奴隷状態から解放した神が、彼らの神なのです。解放の出来事、彼らの信仰の出発点です。

 この神以外のものを神として崇めるのが偶像礼拝でした。「イスラエルの子らは、ヤハウェの目に悪を行い、彼らの神ヤハウェを忘れた。彼らはバアル、アシェラに仕えた」(士師記3:7)。なぜ偶像礼拝をするのでしょうか。その偶像の方が、自分たちを幸せにすると考えるからです。豊作、豊かな実りを与えてくれるものとしてバアル、アシェラを拝んだのです。

 聖書はしばしば偶像礼拝を姦淫と呼びます。自分の妻を顧みず、別な女性と関係を持つのは姦淫です。妻よりも別な女性とつきあう方が幸せだと思い、深いつき合いをするわけです。

 本当は妻だけを愛すべきなのに、妻を裏切り、別の女性を愛するのです。「わたし以外のものを神としてはならない」と述べる神だけを神として崇めるべきなのに、他の神を崇める、それが偶像礼拝。結婚とは、伴侶以外の人と性の交わりを持たないことを意味します。それで偶像礼拝を姦淫と呼びます。

 聖書における第二の偶像礼拝は、モーセ十戒の第二戒です。

「あなたはいかなる像も造ってはならない」(出エジプト20:4)。

像を造ってそれを拝むのです。この場合、別の神を拝んでいるのではないのです。神がいけないというやり方で神を拝むことが偶像礼拝です。

 イスラエルの民が奴隷の地、エジプトを脱出し、自由に生きることのできる土地を目指して旅をし、シナイ山の麓に来ました。指導者のモーセシナイ山に上り、40日も過ぎ、イスラエルの民は不安になりました。そこで彼らは金の子牛の像を造り、「これこそ、あなたをエジプトから導き出した神だ」と言って拝んだのです。

 イスラエルの民は、別の神を拝んだのではないのです。神がしてはいけないというやり方をして神を拝んだ。これが偶像礼拝です。

 神は目に見えません。見えないから信じるのです。でも目に見えるものがあると安心するのです。お守りを持つ人がいます。特に自動車に、お守りをぶら下げる。そうすると安心するんです。あのお守りが本当に私たちを交通事故から守るのでしょうか。本気でそう信じている人は少ないと思いますが、目に見えるもので安心したいのです。お守りを自分を守る神にしてしまうのです。

 神がしてはいけないという方法で神を礼拝する、それは言い換えると自分の神を造ることです。私たち神を信じる者が陥りやすいのは、ここです。聖書は神がいかなる方かを告げています。聖書から神を学ばず、神ってこんなものと、自分で想像し神を造ってこれを拝むことです。目に見える像は造らずとも、自分の考えで偶像を造ってしまうのです。

「主にねたみを起こさせるつもりなのですか」(22節)。

 私たちの信じる神は、ねたむ神です。人間くさい、おかしなと思うかもしれません。ねたみとは、何でしょうか。自分が持ってないものを他人が持っているのを見るときに生まれる感情です。自分の好きな女性が、自分ではなく、他の男性に心が向くとき、ねたみを感じます。女性の心を自分のものにしたいのです。聖書の神は、自分を信じてくれるはずの人間が他の神に心を向けるとき、ねたみを感じるのです。

 神のねたみは人間のそれとは異なります。神は、人間が神を崇め、幸せになることを願っています。その人間が偶像に走り、幸せからそれていくのを神は悲しむのです。人間に真の幸福をつかんでほしいと切に神は願っているのです。それほどに神が人間のことを切に愛しているので、人間もこの神だけを愛することを求めるのです。人間が浮気して、他の神を礼拝するとき、神はねたみを感じるのですが、人間の抱く憎しみと隣り合わせのねたみとは全く異なります。人間のねたみが自分のことを考えるのに対して、神のねたみは、神が人間のことを思うが故です。

 では私たちは真の神を神とするにはどうしたらよいのでしょうか。

  • 神以外の偶像を離れて真の神に立ち帰ることです。
  • 次に聖書を読み、神を正しく知ることです。
  • そして神を崇めて生きることです。

「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」(マタイ5:16)。

 私たちの生き様を通して、人々が神を崇めるようになり、神を信じるようになるように努めることです。

「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を表すためにしなさい」(コリント一10:31)。

食べるとき、飲むとき、どのようにして神の栄光を現したらよいのでしょう?
今日の夕食の課題です。