クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

今週の説教

聖書 ローマ 4:13〜25 復活を信じる

 イエスが復活されたのは、私たちを義とするためであった、そのことを聖書から聞きたいと思います。

 昔、黒澤明監督の「天国と地獄」という映画がありました。企業のトップで高台に立つ豪華な家に住む人。貧しさの中にあって、高台の家を仰ぎ見る人。今でいう格差が恨みとなって、誘拐事件が起きるという内容の映画でした。

聖書も天国と地獄について語っています。

天国を選びなさい、と私たちに告げていますね。

この世における格差とは想像できないほどに、本当の天国と地獄の格差は大きいと思います。

あなたはどちらを選びますか。

1.私たちは罪のために、滅びる者である 


 聖書は、イエス・キリストが私たちの救い主であると教えます。そして救いを求めるように、私たちを促します。なぜ?

(間)

私たちが滅びることのないためです。

滅びるとは、地獄に投げ込まれるということです。

「しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる」(マタイ5:22)。

エス様は兄弟に向かって馬鹿という者は、地獄に投げ込まれると言っています。

罪を犯す者は、地獄に落とされるのです。

だから、地獄に行くような生き方をするのではなく、天国を目指すような生き方をするようにと、神はイエス様を救い主とされました。

救いがあるということは滅びがあるということです。
天国があるということは地獄もあるということです。

(間)

多くの人間は、神から豊かな恵みを受けているのに、それを認めず、神に感謝することなく生きています。

健康であること、仕事があること、家族がいること、食べる物が与えられていること、感謝しないで、当たり前の如く生きています。

時には、神がいるならなぜこうなるんだと神に文句を言います。

神から豊かな恵みを受けているのに、それでは足りないと文句を言うかのように神に反抗する人間が聖書に登場します。

誰でしょう?

(間)

アダムとエバ。神が最初に造った人間です。

神は彼らをエデンの園に住まわせました。

そこには沢山の木があり、どの木の実も食べて良いと神は言われました。

恵みがあふれている場所でした。

ただ園の中央にある善悪を知る木の実だけは食べてはいけないと神は警告しました。

それを食べると必ず死ぬからです。

恵みが豊かなのに、それでは不十分であるかのように、彼らは禁じられた木の実を食べ、神に反抗しました。

神は彼らに悔い改めのチャンスを与えましたが、彼らは悔い改めませんでした。

そこで神は彼らをエデンの園から追放されました。

ノアの洪水の物語があります。

神が地上をご覧になると人の悪があふれ、人は常に悪いことを考えていたのです。

神は洪水を起こし、人は皆死んだのです。

神は罪に対して怒る方であることを典型的に示す物語です。

ここで皆さんに悲しいニュースを伝えなければなりません。

私も皆さんも、神から滅ぼされるべき者なのです。

滅ぼされる者、地獄に落とされるに価する者なのです。

(間)

誰にでも良心があります。

悪いことをすると、良心の呵責を覚えます。

後悔を感じます。悪いことをした自分を責めます。

なぜ、後悔を感じるのでしょうか。

なぜ良心の呵責を覚えるのでしょうか。

それは「あなたは罪を犯しています」という警告です。

良心の呵責を覚えた後どうしていますか。

放置していませんか?

そして忘れていませんか。

聖書は、最後の審判を教えます。

「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」(ローマ2:16)。

最後の審判の時、神は私たちの犯した罪の一切を明るみに出して裁く、というのです。

このような聖書の言葉は、赦しを求めないと地獄に行くことになりますよ、という警告です。

かつての私はたばこの奴隷で、体に悪いと思っていてもやめることができませんでした。

ある時、咳をした時、ハンカチに少し血がついたことがあり、びっくりしました。

神から与えられている体を傷つける罪を犯していると気づかされました。

自分は神の罰を受けて、このまま死んでも仕方がないと思いました。

罪を犯す私のためにイエスは十字架について下さったと知り、洗礼を受けました。

私たちは地獄に行くべき者なのです。

(間)


2.神はイエスを、罪を償うための供え物とされた


旧約聖書を読むと、人が罪を犯した場合にすべきことを神は定めています。

罪を赦してもらうために、いけにえを献げるのです。

いけにえを献げて罪の赦しを求めると神は赦して下さるのです。

罪を認めず、赦しを求めない人に神は裁きを下します。

実際に神が裁きを行っていることが聖書に書かれています。

そんな聖書を読んで神は怖い、と感じる人もいます。

アダムとエバも、神に背いた時、神を恐れて逃げました。

罪を犯す人にとって神は怖い存在です。

思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。(ガラテヤ6:7)

ここで皆さんにうれしいニュースをお伝えします。

神は、赦しの道を用意してくださいました。

今日の聖書、24節に「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され」とあります。

(間)

これは神がイエスを死に渡したこと、つまりイエスを十字架につけたことを意味します。

「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3:25)。

神ご自身がイエスを、罪を償うための供え物として献げたのです。

本来は、罪を犯した者が償いのためにいけにえを献げるのに、

なんと罪を赦す側の神がいけにえを献げたのです。

私たちが滅びに価する者なのに、滅びることがないようにと神が手段を講じてくださったのです。

こんな事は普通あり得ません。

(間)

2年ほど前に自動車事故に遭いました。追突されたのです。たいしたことはありませんでした。

事故の日の夜、相手の人が両親を伴ってお詫びと見舞いに来て下さいました。

事故にあった私が、相手の家にお見舞いの品をもって出かけたとしたらどうでしょう。

そんなことあり得ないことです。

しかし神ご自身がイエスを、罪を償うための供え物として献げたのです。

ここに神の愛があると聖書は告げています。

(間)

「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。

罪を犯す側の人間は、イエスが罪の償いのいけにえとなったことを信じれば、罪は赦されるのです。

赦されるために人間のすることは何もありません。

信じるだけでいいのです。

エス様が罪の償いのいけにえとなって下さったと認めればよいのです。

そして神が提供して下さった赦しを受け取るのです。

これは恵みによる赦しなのです。

赦しを受ける者には、最後の審判の時、神の国、天国に迎えられる約束が与えられます。

(間)


3.私たちは、義とされ、救いの恵みに入れられた。


神は十字架で死んだイエスを復活させました。

エスが十字架で死んだのは、イエスを憎む人々の陰謀のせいです。

ですから、人間の目には、イエスの働きは挫折したように見えました。

でも神がイエスを復活させ、イエスの死が、償いの死であったことを証明したのです。

今日の聖書は、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます」。

エスを復活させた神を信じれば、私たちは義とされるとあります。

神が私たちを愛し、私たちのために、神の側からイエスを償いの供え物とされたことを認めれば、義とされるとあります。

「信じる」とは認めることです。

(間)

神がイエスを復活させたと聖書が語ることを認め、受け入れることです。

その時、神は私たちを義としてくださるのです。

義とするのは赦しを含むと同時に、もっと豊かな内容を持ちます。

義とされた私たちに対して神がなさることは祝福です。

祝福だけです。

(間)

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。

「すべてのものを私たちに賜る」。

(間)

恵みとしてすべてのものを神は与えてくださる、というのです。

これが信仰者に対して神がなさるすべてです。

(間)

信じる私たちに対して、罪を犯したら罰しようと待ち構えてなんかいません。

信仰者がよいことをしたら恵みを与えようと待ち構えてなんかいません。

いつも祝福を与えようとしているんです。

信仰者として歩むとは、神の恵みを受け取って歩むことです。

何と幸いなことでしょうか。

信じられますか? 

(間)

神は恵み深く、慈しみに富み、憐れみ深く、忍耐強い神です。

聖書に何回も繰り返して書かれています。

私たちが罪を犯せば、赦しを与える憐れみ深い神です。

神は私たちが悔い改めるのを忍耐強く待っておられる神です。

神は慈しみ深く、恵みに満ち、私たちに祝福を注ごう、注ごうとしているかたのです。

「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」という福音をアブラハムに予告しました。信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。


(間)

信仰者の歩みは祝福の歩みです。

私は、信仰者の歩みが祝福を受け取る歩みということを知らずに長い間生きてきました。

伝道がうまくいかないのは、自分の努力が足りないせいだと自分を責めてきました。

でも聖書から教えられました。

信仰の世界は、自分の努力で、自分の力で、物事を行うという世界ではありません。

信仰の世界は恵みを受け取っていく歩みをする世界です。

信仰者にも努力は必要です。

神の恵みが何かを知る努力、その恵みが与えられていると信じて生きる努力、これが信仰者のする努力です。

(間)

エス様を信じる前は、頑張っても満たされない人生を生きてきました。

エス様を信じた後は、頑張らなくても祝福される人生を歩むこととなりました。

ありがたいことです。


祈り


天の父、イエス様が私たちの罪のために死んで下さり、私たちの罪の償いをして下さったことを感謝します。

エス様は、敵対者の陰謀によって十字架につけられましたが、あなたはイエス様を復活させ、イエスの死が挫折の死ではなく、償いの死であったことを正目されましたこと、感謝です。

罪の赦しを受けて、義とされ、神を信じて歩む者とならせて下さい。

神の目に正しい者とされた信仰者の歩みが祝福を恵みとして受け取る歩みであることを教えて下さい。

頑張っても満たされない人生を歩んでいる人に、信仰の世界があることをあなたが伝えて下さい。

エス様を信じる者は、頑張らずとも恵みによる祝福を受けて生きる人生があることを感謝できるように導いて下さい。

あなたの恵みによる祝福が何かをはっきりと教えて下さい。

それを受け取って歩ませて下さい。
イエス・キリストの御名により祈ります。