クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2008.3.30)
聖書 コリント一13:4〜7 愛はすべてを望む


1.希望に生きるパウロ


 これまで説教では、コリントの信徒への手紙を取り上げてきました。この手紙を読むと、コリント教会は問題だらけの教会であることが分かります。内部分裂には至らないにしても、内部での争いがあります。みだらな行いをしている人がいます。教会の中で起きたもめ事を自分たちで解決できずに、裁判所に持ち込んでいます。偶像に献げられた肉を食べる問題で、信仰の強い人が信仰の弱い人に対して高慢になっています。あるいは富める人が貧しい人を顧みることがなかったりします。
 

 コリント教会の牧師になりませんか、と言われたら、正直ためらいを感じます。それが神のみ心なら受けるでしょうが。


 パウロは、この手紙を書いて、それぞれの問題について、指示を与えています。13章では、愛することを教えています。愛し合うこと、それは人間関係を良い状態に築きます。愛し合う時、一致が生まれていきます。コリント教会が愛し合う教会となり、一致が生まれることを願って、パウロは、愛を教えています。

 コリント教会は、抱えている問題を解決して再生することができるのでしょうか。パウロが、「愛はすべてを望む」という時、彼は希望を抱いています。パウロは、ローマの信徒への手紙では、アブラハムという人物が、希望を持てそうにない時に、希望を抱続けた人物として描いています。


 神はアブラハムに、あなたの子孫は空の星の数のように増えると約束しました。彼が100才近くになっても、まだ子供がいないのです。どう考えても子孫が増えるとは思えないのですが、彼は神の約束を信じ抜き、子供をもてるという希望を捨てなかったのです。パウロも、人間の目には不可能に見えても、コリント教会が愛によって一つとなる教会になるという望みを持ち続けたのです。


2,希望という生き方がここにある


 この間まで、テレビで「鹿男あをによし」というドラマを私は楽しみに見ていました。主人公の小川は女子校の先生をしています。彼は鹿男です。鏡を見ると顔の部分は鹿になっているのです。彼のことを好きな同僚の藤原先生が、彼を評していうのです。

「小川先生って、何事もそれは無理、できない、というところから入るんですよね」。

マイナス思考の典型なのです。


 人には物事に向き合う姿勢に、傾きがありますね。小川先生は、まず無理じゃないか、と考えちゃうんですね。皆さんは、新しいことに取り組む時、どんな気持ちになりますか。できるかな、と不安になる。難しいと考えてしまう。何とかなるだろう。挑戦してみようと思う。神に信頼してやってみよう。色々ですね。


 世の中にはプラス思考という考え方もあります。マイナス思考の反対です。プラス思考が絶対的にいいか、というとそうでもありません。

 インターネットのブログにこんな事が書いてありました。

プラス思考をしていると、確かに一時的には、元気になったり、行動的になったりするでしょう。しかし、結局うまくいかないのが、現実ではないでしょうか?このような思考を繰り返している人は、よく観察してみると、調子の良いときと悪いときとの差が大きく、積極思考と悲観思考の間を行ったり来たりしていることが多いようです。何を隠そう私自身がそうでした。

だからといってプラス思考がいけないと言っているのではありません。聖書を読んで分かることは、聖書の教えは、プラス思考です。

「私を強めて下さる方のおかげで、私は何でもできる」(フィリピ4:13)。

これは、私が握りしめている聖句です。


 でも私は、これをプラス思考とは呼ばず、御言葉思考と呼びます。聖書には、神の約束の言葉があります。約束の言葉を信じて、生きるのです。神は真実な方だから、約束は必ず実現します。


 積極的に考え行動すればうまくいくというプラス思考には根拠がありません。ただプラス思考の人は努力しますから、うまくいく可能性はあります。御言葉思考は、神の約束に根ざしていますから、うまくいくと信じる根拠があります。


 クリスチャンの生き方の特徴は、望みを持って生きることにあります。どんな時でも、どんな状態でも、クリスチャンは、望みを持って生きることができます。望みをいつも持って生きる、希望という生き方はクリスチャンの特権です。


3.愛という生き方がここにある 


 男性と女性は、違いがありますね。男性は、達成感、何かを成し遂げることに生き甲斐、幸せを見いだす傾向があります。一般的に女性は、人との良い関係にあることを幸せと感じる傾向があります。


 NHKの朝の連続ドラマ「ちりとてちん」の主人公は、「お母さんみたいになりたくない」と言って故郷を離れました。夫のために、子供のためにただ忙しくしているだけの母の姿に魅力を感じなかったのです。目標もなく大阪に行き、やがて落語家を目指すようになります。最後は、お母ちゃんみたいになりたいと言って、落語家を辞めました。生まれてくる子供との関係、夫との関係、弟子との関係。そういう関係の中で人を愛し、人に尽くすことに幸せを感じるのです。


 愛するとは、愛する人とよい関係を気づくことです。それは幸いなことです。喜びです。男性は、愛することに、つまり良い関係を気づくことに幸せがあることに気づくとよいと思います。


 実際、聖書は、愛という生き方を私たちに教えています。神を愛し、人を愛する、それが創造主なる神が人間に求める生き方だと教えています。だから、コリント書で、愛についての詳しい教えが書かれているわけです。


 パウロは、愛の教えを夫婦のために書いているのではありません。子を愛する親のために書いているのでもありません。教会にいる人のために書いています。教会は、キリストの体であり、教会は一致しているものであり、そのために互いに愛し合うべきことを、教えたのです。


 愛は忍耐強い、愛は情け深い、妬まない。・・・・。これは愛し合う教会を築くための教えです。イエス様も「互いに愛し合いなさい」と何度も教えています。
教会員が互いに愛し合う教会って、どんな教会か、想像できますか。すばらしいと思いますか。どれほどの素晴らしさだと思いますか。


 この素晴らしさも見せることができたらいいと思うんですけど、できません。この素晴らしさを感じたことはあります。


 一昨年、仙台のラブリ聖書教会に「弟子訓練勉強会」で出かけました。にこやかな態度で迎えて下さり、積極的に関わってくれます。休憩時間には、すっとそばに来て、話しかけてくれます。自分のことを大切にしてくれている、と感じるのです。愛されていると感じます。おのずと自分もそのように愛する人になりたいと感じさせるのです。いい教会だ、こんな教会を築きたいと思いました。愛される居心地の良さ以上に、愛する喜びがあるに違いありません。愛し合う教会の素晴らしさの一端を見ました。


 パウロがコリント教会に願っているのもこれです。愛すれば互いに理解し合い、一致が生まれるとの希望をパウロは抱いています。教会において、どんな状態でも、互いに愛し合い、一致が生まれるといつも希望を持って、信じて生きるようにパウロは命じています。
いくつかの教会を経験した人、一つの教会で長く過ごした人はいうかもしれません。愛し合う教会、そんなの理想、と。だからこそ、望みを持って、築きたいと願うのです。一緒に築きませんか。これはチャレンジです。