本日のメッセージ(2008.7.13)
聖書 ヤコブ 2:14〜26 態度で示そうよ
今日の、説教を準備しながら、ある曲を思い出しました。皆さん知っている曲です。坂本九という歌手が、1964年、東京オリンピックが開催されていた年に歌いました。この東京オリンピックを契機に、この曲は、世界中に知られることとなりました。
『幸せなら手をたたこう』です。
この曲はスペイン民謡だそうです。作詞は、早稲田大学教授 で木村利人(きむら・りひと)さん。16歳の時に富士見町教会で洗礼を受けたクリスチャン。木村さんは、早稲田大学在学中にキリスト教学生ボランティア運動に没頭していました。ある時、日本のYMCAを代表して、フィリピン農村でのワークキャンプに参加する機会があったそうです。木村さんが宿泊していた合宿所の小学校の校庭では、村の子どもたちが古いスペイン民謡を歌っており、それを木村氏も耳にしていたのです。ワークキャンプを終え、日本への帰途へ着くフランス貨物船の中で、木村氏はそのスペイン民謡のメロディーに詩をつけました。こうして、今日知られる『幸せなら手をたたこう』が生まれたのです。 歌詞を選ぶにあたっては、クリスチャンである木村氏らしく、旧約聖書の詩編47・1「すべての民よ、手を打ち鳴らせ」に着想を得たようです。
以上は、ここを参考にしました
態度で示す大切さを教えています。
1.行いを伴う信仰は大切と知ろう
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか」(14節)。
「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(17節)。
「魂のない肉体が死んだものであるように、行いを伴わない信仰は死んだものです」(26節)。
信仰には行いが伴うことが必要だ、大切だと聖書は述べています。信仰は態度で示すことが大切だと、神様は、わたしたちに教えているわけです。
「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(15〜16節)。
食べ物に事欠いている人に、あなたが食べ物を差し出さないなら、あなたの信仰は役に立たない、と告げられます。食べ物に事欠いている人が、あなたが信仰を持っていることを知らなければ、あなたのことを嫌な人と思うでしょう。その人が、あなたが信仰を持っていることを知っていたなら、あなたは神の名を汚したことになるでしょう。行いがないなら、あなたは自分の名誉を失い、神の名を汚しもするのです。
アブラハムは、神から、息子のイサクを神に捧げるように命じられました。別な言い方をすると、アブラハムは祭壇を築いて、その上で息子を殺すように命じられたのです。実際に彼がイサクを献げようとする姿を見て、神はやめさせました。神は、アブラハムが自分の子供さえ神に捧げるほどに、神に従順な人であると認めました。彼の行いを見た神は、アブラハムの信仰が本物だと認めたのです。信仰には行いが伴うことの大切さを教えられます。
信仰に限らず、自分の気持ちを態度で示すことは大切です。たとえば、感謝の気持ちを表すことは、多くの人が心がけています。
2.あなたの信仰は、良くも悪くも行いに現れている
あなたの行いは、あなたを見ている人に何らかの影響を与えます。食べ物に事欠いている人に、親切そうな言葉はかけても食べ物を分かち合わなければ、あなたは薄情な人とみなされるでしょう。あなたが信仰者であることが知られていたなら、あなたは偽善者とみなされるでしょう。でもあなたが親切な言葉をかけ、食べ物を分かち合えば、喜ばれることでしょう。
あなたがどう行動するかで、あなたの信仰が他の人に、良い影響を与えたり、悪い影響を与えたりするわけです。悪い影響とは、人々が神様やキリストのことを軽んじる結果を生み出すことです。良い影響とは、人々がキリスト信仰に対して好意を持つようになることです。
あなたの行動を見ている人がいます。あなたの周囲にいる人だけでなく、神様も見ておられます。私たちの行いを見ている人がいると意識する時、私たちは自分の歩みに慎重になります。私たちの行いを見ている神様がいると意識する時、悪いことはかなり、できなくなります。
私たちは信仰の行いを積極的に見せようとすることもあります。証しをしたい時です。他の人に感化を与えることになります。
たとえば家族は身近な存在です。私たちが家族に仕え、家族に感謝の言葉を語れば、良い影響を与えることができます。私たちがこれを怠れば、家族は、キリスト教に対して、良い印象を持たなくなるでしょう。
「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(14節)。
「救う」という言葉が出てきます。この場合の「救う」とは、私たちの歩みが健康なものになる、喜ばしいものになるとの意味です。神様を信じ喜んでいることが外に現れてくるような行動を私たちがしていく時、私たちの行動は、わたしたちに喜び、生き甲斐をもたらすことでしょう。信仰者としての生き様を示すのをためらったり、示せなかった時、私たちは、自分に対して、悔やんだり、落胆するでしょう。
私たちの信仰を表現する、それは喜ばしいことなんです。きっと神様にも喜ばれるでしょう。どう表現するか考える、それは楽しいことです。私たちは「表現者」なのです。私たちの表現が、周囲の人たちに対して、よい影響を与えるなら、うれしいですね。
私たちの信仰をどう表現するのか、さらに真剣に考えたいです。日曜日、礼拝に出席する、これは、信仰を現している行為です。これは毎週心がけていますが、さらに日ごとに新しく、神様に対して、また家族や関わりを持つ人に対して、信仰を見えるように表現したいものです。
3.行いの実を結ぼうよ
私は信仰を持っているから、こう表現したい、と信仰を見えるようにすることが大切です。行いで信仰を現すこと、それは実を結ぶことといえます。一回、そういう行動をしたら、一つの実を結ぶということです。
ところでリンゴ、なし、桃、それぞれにおいしいです。実もかなり大きいですね。聖書に出てくる果物で有名なのは、ブドウです。ブドウは小さな房が沢山集まって一つの実を作っています。クリスチャンが結ぶ実はブドウのようなものです。クリスチャンの行いの一つ一つは、小さな行いでいいのです。その小さな行いが集まると、ブドウのように大きな実に見えるのです。
たとえば、
- 日々の生活の中で、感謝を数えて、神様に恵みを感謝します。感謝の実を結びます。
- 日々の生活の中で、辛い時、苦しい時、怒りで気持ちが揺れる時、自分の気持ちを神様に伝えて、平安を受け取ります。平安の実を結びます。
- 日々の生活の中で、神様に期待するのです。信頼の実を結びます。
- 日々の生活の中で、自分の考えではなく、神のみ心を求めて行動するのです。従順の実を結びます。
- 日々の生活の中で、すぐに行動するのではなく、まず祈るのです。祈りの実を結びます。
- 日々の生活の中で、家族がしてほしいと思うことをするのです。愛の実を結びます。
このようなことを積み重ねていくとどうなるでしょうか。あなたは神様を喜ぶことができるようになるでしょう。自分の信仰生活を喜ぶことができるようになるでしょう。あなたの信仰は、家族の人に喜ばれるものとなるでしょう。神を愛する愛、人を愛する愛が少しずつ身についてきたことに気づくでしょう。
私はスミレの花が好きです。きれいです。でも目立たずに咲いています。精一杯咲いています。ほんの数日咲いて、花は美しさを失います。枯れていきます。クリスチャンの行いはささやかでよいと思います。目立たなくても、人に気づかれなくても良いのです。
神を愛して神に信頼し、恵みを受け取って喜び、感謝します。人を愛して、ささやかな愛を継続的に示していきます。そして、私たちの信仰の花を精一杯咲かせていきたいのです。そして、精一杯、信仰に生きたという感謝をもって生涯を終えたいのです。感謝と喜びをもって天国に行きたいのです。
さあ、そこで一緒に歌をつくり、歌いませんか。あの歌です。
「〜」の部分に言葉を入れて、喜び歌いましょう。たとえば
「信じてるなら、態度で示そうよ、ほらみんなに笑顔見せよう」。
「ほら、妻にお料理においしかったと感謝しよう」「ほら、会社から帰った夫にお疲れ様でしたとねぎらいの言葉をかけよう」「ほら、感謝を数えて神様をたたえよう」等々、歌いましょう! 祈りましょう。
天の父なる神様、私たちに信仰を与えてくださって感謝します。
イエス・キリストを信じる信仰を感謝します。
天の父、私たちを表現者にしてください。
多くの人が、たとえば歌を作ったり、絵を描いたり、趣味を持ったりして、様々に自分を表現したいと考えています。
私たちは、信仰を表現する者でありたいと思います。
神様に対して、あなたへの信仰を表現したいです。
感謝したり、賛美したり、あなたのみ心に従ってあなたへの従順を、あなたに期待してあなたへの信頼を表現したいです。
あなたへの信仰を見えるように表現したいです。
また、私たちの家族に対しても、身近にいる人たちに対しても、愛を表現したいです。
信仰を表現する喜びと幸いを教えてください。
どのように表現するのか、聖霊様の導きを与えてください。
日ごとに新しく表現する者として生かしてください。
イエス・キリストのみ名により祈ります。