水曜日の祈祷会は、昔は聖書研究祈祷会と呼んでいた。日キ教団の諸教会は、たいてい聖研と呼んでいる。共に聖書を読むのだが、牧師が聖書の解説をして、質疑をし、祈るのが平均的なパターンと思う。僕もそうしてきた。金沢元町教会に来てからは、それをやめた。ある時は、聖書を理解するために、質問を投げかけ、考えるように促した。ある時は、聖書を読んで、感じたこと、思ったことを語り合うようにした。それだけでなく、僕の方から、突っ込みを入れて質問したりして、内容を深めることもしてきた。そして今、各自が日々聖書を読む中で思ったことを語り合うように今週から新しい試みを始めた。
ディボーションをして、教えられたこと、適用したことを語る人がおり、祈祷会に出るから聖書を読んだという人がその感想を述べたり、一人一人の聖書との関わりは異なる。ある方の話を聞きながら、泣きそうにもなった。参加者が聖書を自分の状況に結びつけて話されるのを聞くのはうれしいもの。そして各自のために互いに祈ることができる。今週の祈祷会は、感謝だった。
けれども、彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかったためです(ヘブル4:2)。
このヘブル書の言葉が心に残る。
毎週、入門コース、基礎コース、弟子コースなどの学びをしている。先週からは「誰でもできるディボーション」と題してのディボーションの学びもしている。学びの参加者は決して多くはない。学びの大半は、一対一の学びである。聖書の学びは、人格を変える学びである。聖書の言葉に感化されて、変えられていく学びであるから、それは人を育てる学び。育児は一人一人大事に育てるのが原則。信仰者を育てるのもまた同じと肝に銘じる。効率よく人を育てることはできない。