クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 朝、出エジプト記17章1〜10節を読んだ。荒野を旅しているイスラエルの民がレフィディムで宿営した。ところが水がなく、民は不平を言い出すのである。16章では、民は、食べ物がないといって不平を言い、神はウズラを与え、日々マナを与え、食べ物を与えるという奇跡を行った。それにもかかわらず、水がないといっては、不平を言うのである。神に助けを求めればよいのにと思う。神の奇跡を見ながら民はなぜ不平を言うのだろうか、と考える。

「民はのどが渇いてしかたがなかった」(3節)。

 厳しい現実を前にする時、人は不平、文句を言いたくなる。厳しい現実を自ら受けとめるのではなく、人のせいにしたがる。人のせいにして、その現実を受けとめるのである。そこでモーセに不満をぶつけた。でも、のどの渇きが癒されるわけではない。人は人生を自分のコントロール下に起きたいと考える。で、人は思い通りにならないといらだちを感じる。

 自分にコントロールできないことが起きたらどうするのか。会社が倒産する。ガンになる。災害にあう。こんな時、人はどうするのだろうか。

  • 潔く不運とあきらめる。
  • 神を呪う。
  • 人のせいにする。
  • 自分を責める。

 受け入れがたい事態を受け入れるには理由が必要で、人は理由を探す。自分がコントロールできることとできないことがある。コントロールできないことはそれを認めて受け入れなければならない。認めた上でどうするか、である。


 自分でコントロールできないことについては神にゆだねるべきことを教えられる。聖書は私たちがゆだねることのできる神を教えている。ゆだねることができる神がいる、これもまた恵み。


 コントロールできないことをコントロールしようとするのは思い上がり。コントロールできないもの。天気。人の心。災難。寿命。