クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.2.22)
聖書 エフェソ 4:1〜6 私たちを召される神

 教会って何なのでしょう。使徒信条には、「聖なる公同の教会を信ず」とあり、教会は信じる対象なのです。一体、何を信じるのでしょうか。教会は伝道して礼拝していればいいんだという考えもありますが、なぜ、信じるというのでしょうか。何を信じるのでしょうか。不思議ですね。


1.招かれる神  


 イエスの言葉を紹介します。

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)。

 この礼拝堂に集っている人の多くは、クリスチャンです。イエス・キリストを信じる決断をして、洗礼を受けられた方です。信仰に入ったのは、自分の決心によると考えている人もいると思います。でもイエスは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と言われるのです。


 私たちは気づかなかったのですが、まずイエスによる選びがあり、その結果を受けて、私たちが信仰に入ったということになります。イエスによる選びがあったのかどうかは、証明はできません。そこで私たちは、このイエスの言葉を信じ、イエスによる選びを信じるわけです。そしてそこに救いの確かさを見出すこともできます。私の決心より先に、イエスの選びがあるからです。

次は使徒パウロの言葉です。

「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません」(コリント一1:26)。

 この場合、「あなた方が召された」とは、信仰に入ったことを言います。コリント教会の人々が信仰に入ったことを神様が召したと述べています。


 「召す」という言葉は、「招く」とも訳される言葉です。聖書が告げるところの神さまは、私たちを召される神です。私たちを招く神です。今読んだコリントの信徒への手紙では、神は私たちを信仰に招く方であることがわかります。
(間)


 別な聖書の箇所にはこうあります。

「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」(テサロニケ一4:7)。

 これは言い換えると、信仰者として、聖なる生活をするように神は我々を招いているというのです。神は招く神なのです。今日のエフェソ書にもこう書かれています。

「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」。

 これはエフェソ教会の人々に向けられた言葉です。聖書を神の言葉として読むとき、私たちへの語りかけとして読みます。聖書が伝える神は、私たちを招く神であり、私たちにその招きにふさわしく歩みなさいと呼びかける神なのです。ですから、この招きに答えるか、否か、私たちは考えなければなりません。


 神が何に私たちを招いているのかわからないからすぐに返事はできないという人もいるでしょう。聖書に従えば、この招きに答える、招きに応じるのが、聖書の神を信じるということになります。


そして、この招きに応じることは、私たちにとって幸いなのです。この神は私たちを救う神だからです。神が私たちを招いて下さる、これは恵みなのです。


2.一致して招きに応じる歩み 

2節。「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい」。

 これは召しにふさわしく歩む時、どういう態度で歩めばよいのかを記したものです。「柔和、寛容、愛、忍耐、平和、霊による一致」。こういう態度を持ちつつ、神の招きに答えて歩みなさいということです。


 聖書の別な箇所に、聖霊に導かれている人に特徴的な態度が紹介されています。愛、喜び、平和、寛容、柔和などが列挙されています(ガラテヤ5:22)。神の招きに応じる人は聖霊に導かれて歩む人であることがわかります。


 次に、「一つ」という言葉が繰り返されています。これは信仰者の一致を述べたものです。「体は一つ」。この体はキリストの体であり、教会を指します。教会は一つ。キリストの体である教会があるのみです。キリストの体ではない教会は存在しない、教会はキリストの体との主張です。

 神の招きに応じるというのは、私たちが一つとなって招きに応じて歩むことだと述べているわけです。


 その神の招きとは何か、今日の聖書の次の箇所に書かれています。それは先週お話ししました。キリストの体を造り上げるということです。私たちはキリストの体を造り上げるために、神様に召されています。しかも一つになりなさいと言われているのです。


 なぜ一つになるのか、この点をさらにお話しします。霊は一つ、主は一つ、神は唯一とあります。私たちの神は、三位一体の神です。この三位一体が鍵です。


3.キリストの体なる教会の形成


 聖書が告げる神は、唯一の神ですが、三位一体の神です。神は三通りの仕方でしかも別々の存在として、存在し活動します。

  • 父なる神としては天におられます。
  • 子なる神としては、2000年前に人となり、十字架について死に、復活し、天に挙げられました。イエスのことです。
  • 聖霊なる神としては、信仰者の心に住み、信仰者を新しく生まれ変わらせ、信仰に生きる力を与えます。


 神は三通りの仕方で、三つの人格を持つかたちで存在しますが、唯一の神だ、というのが三位一体の教えです。神が三人いるのではなく、一つだというのです。父、子、聖霊なる神は、互いに愛し合い、人間の救いのために一つとなって働いているのです。


 三つの人格がある神が、一人の神として生きて働いているのです。このことを理解するよいモデルがあります。それは人間です。神は人間を造りました。その時神は、男と女を創造しました。そして神は、夫婦は一体であると言いました。


 夫婦というのは、夫と妻という二つの人格からなります。そして夫婦は、互いに愛し合います。そして一つの家庭を営み、夫婦は一つとなって人生を歩みます。子供が生まれれば、夫婦が協力して一つとなって育てます。


 夫と妻という二つの人格が夫婦として互いに愛し合い、一体となって歩みます。これが結婚です。夫と妻という二つの人格が一体となって家庭を営み、人生を過ごすことは、三位一体の神に似せて人が造られたことを意味しています。


 次に登場するのが教会です。教会は、神に招かれた信仰者の集りです。教会には人格を持つ多数の人々が集うのです。多数の信者が、つまり多数の人格が集まりながら、キリストの体という一つの体を形成するのです。


 多くの信者が、一人一人が一つの人格として、しかもキリストの体の部分として互いに愛し合い、働き、一体となるわけです。これが教会です。教会とはこういうものだと私たちは信じるのです。


 人間は神に似せて造られました。男と女は夫婦一体となって生きていきます。信仰者は、多数一体となって教会を形成します。


結婚とは、夫婦一体となるように神から召されることです。信仰者になるとは、キリストを頭として信者が一つとなる、キリストの体の部分となることです。

私たちが一つとなるのは、神が三位一体の神だからです。人間が三位一体の神に似せて造られたからです。


 そして三位一体の神を信じるとは、信者がキリストにあって一つとなり、互いに愛し合い、イエス・キリストの働きを担うことです。教会はキリストの体ですから、イエス・キリストの働きを担います。


キリストの働きは、伝道、教育、奉仕でした。


・伝道はこの世に向けてキリストを宣べ伝えることです。キリストを証しする者として、この世で地の塩、世の光として生きることです。
・教育とは、イエスがそうしたように、弟子たちを教えること、信仰者を教えることです。
・奉仕とは、教会の中での奉仕、この世に向けての奉仕があります。


 キリストの体である教会は、信者が互いに愛し合い、一つとなって、それぞれが部分としてそれぞれの働きを行い、全体としてキリストの働きを担います。大事なのは、信仰者が互いに愛し合い、励まし合い、支え合うことです。「互いに愛し合いなさい」との教えが何度も聖書に繰り返されています。

  • 私たちが信仰者になるとは、キリストの体の一員として互いに愛し合いなさいという神の戒めに従うことです。
  • 私たちが信仰者になるとは、キリストの体の一員として生きるようにとの神の召しを受けることです。


 信仰者の働きが様々・多様であることは言うまでもありません。キリストの体の部分には様々なものがあるからです。


 私たちは、互いに愛し合い、一つとなってキリストの体の働きを担うために、神に招かれているのです。私たちは三位一体の神に似せて造られているからです。