クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.3.15)
聖書 使徒言行録 2:36〜47 神の恵みに生きる

 牧師として20数年教会に仕えてきました。聖餐の恵みの回復、それが私には課題です。月一回の聖餐式でパンと葡萄酒を受けます。これは本来喜びに満ちたものです。現実に、私たちは喜びをもって聖餐の恵みを受けているのだろうか、と考えてしまいます。 
聖餐の意義を語ることはできます。頭でその意義を理解することができます。でも心は?
1.転回点に立つ教会 


 この世は変化しています。私が20代、サラリーマンをしていた時は、終身雇用制でした。

「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」

などという歌も流行しました。今は、いつ解雇になるのかわからない不安定な時代になりました。女性も社会進出し、共働きするようになりました。働く人の収入もなかなか伸びず、生活のために共働きする人も増えました。家庭で親と子の交わりが薄れ、問題が生まれてきました。世の中は変化しています。教会も変化に対応する必要があります。さもないとこの世に対して、何の影響力もない教会になってしまいます。

「御言葉によって改革され続ける教会」

というモットーがあります。この言葉から、改革派教会と呼ばれる教会の群れができました。金沢元町教会は、歴史的に、改革長老教会と呼ぶことができます。教会の運営の方法では、長老主義、信仰の内容では、改革派です。改革派のモットー。それが、「御言葉によって改革され続ける教会」です。


 この世が大きく変化し、人々の考え、生き方が変化している時、信仰者の考え、生き方も変化します。教会は高齢化し、若い人が少なく、教会員が増えず、教会の運営に支障が出始めています。教会も、聖書のみ言葉により、変化すべき時が来ています。


 御言葉によって、聖書に基づいて、この時代にふさわしい教会の姿を目指したいのです。そして聖餐の恵みを喜びをもって受け取りたいのです。そのために初代教会に学びます。


2.初代教会から学ぶこと 


 今日の聖書の箇所には、初代教会の様子が描かれています。初代教会とは、最初に誕生した教会、教会の歴史の最初の頃の教会のことを言います。


 今日の聖書では、洗礼を受けて教会に加わる人が沢山いたことが告げられます。そして家ごとに信者は集まっていたことがわかります。集った信者は何をしていたのでしょうか。42節では、使徒の教えを学び、共に食事をして親しい交わりを持っていたことがわかります。さらにパンを裂いていたこと、つまり聖餐式を行い、共に祈っていたことがわかります。46節以下でも、パン裂きを行い、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたとあります。


 初代教会は親しい交わりに生きていたのです。しかもその交わりは、真心と喜びに満ちていたことがわかります。そこで行われていた聖餐にも喜びがあったことでしょう。さらに

「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(47節)。

彼らが信仰に生きている姿が、人々の目に映り、それが伝道になっていたのです。


「互いに〜しなさい」という教えが新約聖書の手紙には繰り返し出てきます。

  • 「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)
  • 「互いに人を自分よりまさっていると思いなさい」(ローマ 12:10)
  • 「互いに相手を受け入れなさい」(15:7)
  • 「互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)
  • 「互いに重荷を担いなさい」(6:2)
  • 「愛をもって互いに忍耐しなさい」(エフェソ4:2)
  • 「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:32)
  • 「励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」(テサロ一5:11)
  • 「互いのために祈りなさい」(ヤコブ5:16)
  • 「皆互いに謙遜を身につけなさい」(ペトロ一5:5)。


 「互いに〜しなさい」という教えが繰り返し教えられたということは何を意味しているのでしょうか。これらの「互いに」という言葉は、初代教会が愛に生きていたことを意味しています。教会に集う者たちにとって愛に生きることが大切だったのです。愛に生きる関係こそが教会だったのです。教会に集う人たちが互いに愛し合って生きていたのが初代教会です。


 ところが、現代の教会は初代教会とは違うのです。教会にはすべき働きが色々あります。その働きを組織的に担うのです。組織として働きを担うために、たとえば長老会、委員会を設けます。長老会、委員会が中心となり、教会員が共に働きを担います。教会は、様々な行事、集会をこなすことに力を注ぎます。教会は定められた働き、機能を果たすことが大切とされたのです。そして私たちはそのために力を尽くしてきました。


 そのために教会の命とも言うべき、「互いに〜しましょう」という教えは、それほど重んじられなくなりました。私たちは今、方向を変え、愛の関係で信仰者が結ばれる教会を目指したいのです。

さらに

「民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(47節)。

 彼らが信仰に生きている姿が、人々の目に映り、それが伝道になっていたのです。ところが、現代の教会は初代教会とは違うのです。私たちの信仰生活の中心は、教会にあるのです。礼拝を厳守することが重んじられ、教会の奉仕を担うことが大切にされました。それをきちんと行っていれば、信仰生活をきちんと行っているとされてきました。そしてその努力を私たちは重ねてきました。しかし、教会の中での信仰生活は、この世の人には見えないのです。さらに、教会中心の信仰のため、教会から外に出ると、信仰が生活と分離する傾向がありました。


 サンデイクリスチャンという言葉もあります。日曜日、教会の礼拝に行き、クリスチャンになる。しかしその他の日は、クリスチャンと見分けられる生活はしていないとの意味です。信仰と生活が密接に結びついていなかったのです。牧師も、教会員が礼拝に出席し、献金を献げ、奉仕をしていれば、熱心な教会員と考えたのです。そういう教会員が多いことを願ったのです。そうすれば教会の運営は、安定するからです。でもその結果、私たちが信仰に生きている姿は、この世の人には見えなくなってしまったのです。


私たちは今、生活と信仰が結びつく教会を目指したいのです。


初代教会は、信仰に生きている姿が人々の目に映りました。そして救われる人々が日々仲間に加えられたのです。教会の本来の姿は、その信仰が世間の人々にも見える信仰であったのです。


3.回復の道 


 活動中心、教会中心の考え方から、愛に生きる関係を大切にし、信仰が生活に結びつき、信仰が見えるようにすることを目指します。このような教会になる時、それは聖書的な教会であり、世の光、地の塩である教会になるでしょう。


 その場合大切なのは、私たちが多くの時間を過ごす、家庭と職場です。家庭と職場で、信仰と生活が結びつくことです。夫婦が聖書の教えに従って愛し合う幸福な家庭を築くことです。親子が、聖書の教えに従って親が子を慈しみ、子が親を敬う幸いな親子関係を築くことです。仕事場では、上司、同僚、部下を愛することが大切です。


 普段の生活で、愛し合うことがうまくいかなければ、礼拝を厳守しても、奉仕を熱心にしても、心からの喜びは湧いてこないのではないでしょうか。互いに愛し合う家族、職場でのよい人間関係、それが礼拝に喜びをもたらすのではないでしょうか。


 いつもうまくいくとは限りません。相手がクリスチャンでないなら、なおさらです。幸いな家庭を築く努力を互いに分かち合うことができるから、職場での努力を互いに分かち合うことができるから、互いに〜しようという教えが生きてきます。努力している兄弟姉妹を敬い、祈ることができ、愛することができます。そこに神の家族である教会につながる喜びがあります。


 私たちが初代教会から学ぶことができるのは、愛に生きる教会を目指すことです。私たちが初代教会から学ぶことができるのは、信仰が生活と結びついた教会を目指すことです。その時、洗礼、聖餐の喜びが回復すると信じます。

 教会では洗礼式を行います。教会に新しく信仰者が加わります。うれしいことです。

  • 互いに励まし合うことができる神の家族が増えるからうれしいのです。
  • 信仰によって新しく生まれ変わった兄弟姉妹が、生活に結びついた信仰に歩むことがうれしいのです。
  • 分かち合う兄弟姉妹が与えられることがうれしいのです。


 聖餐式で、パンと葡萄酒をいただきます。パンは裂かれ、葡萄酒は小さな杯に分けられ、配られます。分けられたパンと葡萄酒は元々一つでした。

  • パンと葡萄酒は私たちが一つであることを示しています。
  • 私たちがキリストに連なる一つの神の家族であり、互いに励まし合う一つの家族であることを思い起こさせます。
  • 神の家族であることを感謝し喜べるとき、心から聖餐を喜ぶことができるのではないでしょうか。

初代教会のように、互いに愛し合う教会を目指しつつ、洗礼の喜び、聖餐の喜びを回復しましょう。初代教会のように、生活に結びついた信仰を目指しつつ、洗礼の喜び、聖餐の喜びを回復しましょう。