クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.3.22)
聖書 ガラテヤ 5:2〜7 愛の業に励む


 皆さんの中で幸せになりたくないと考えている人はいますか。皆、幸せになりたいですよね。どうすれば幸せになるか、わかるといいですね。


 私は若い頃、どうしたら幸せになれるのか、悪戦苦闘しました。色んなことをしました。欲しいものは手にいれようとしました。でも幸福にはなれませんでした。信仰を持って得た結論は、愛です。愛し合う関係に生きる、それが幸せ、それが私の得た結論です。


 それは、コリント一13章に書かれています。愛がなければすべては空しいとあります。また神様の教えを要約すると、神を愛し、自分を愛するように隣人を愛することとあります。ですから、神に愛され、神を愛して生きる、人を愛して、人に愛されて生きる。ここに幸せがあります。日本基督教団信仰告白には、

「愛の業に励みつつ主の再び来たりたまうふを待ち望む」

とあります。私たちの生涯は、「愛の業に励む」事とあります。言い換えると、幸福な歩みをすることを意味します。今日の聖書には、「愛の実践を伴う信仰」が大切とあります。信仰を持って愛に生きる、これが幸福を得る道、私たちの生きる道です。


1.愛が人を幸福に導く 


 生きるとは人と関わって生きることを意味します。家では家族との関わりがあります。職場では、職場の人との関わり、お客との関わりがあります。ご近所の人との関わり、町内会の関わりなどがあります。人は、様々な人間関係の中に生きています。


 そして人間関係は諸刃の剣です。人間関係が、人に喜びを与え、また苦しみを与えます。人間関係がストレスや悩みになります。苦手な人と関わらなければならないとなると憂鬱になります。親しい人と一緒におしゃべりしたり、出かけたりすることが楽しみとなり喜びとなることもあります。


 私たちは人間関係から逃れて生きることはできません。幸福な人生を送りたいなら、人とどう関わるかが大切になります。聖書は、愛が必要だと教えます。人を愛すること、互いに愛し合うことを聖書は教えています。私たちが、時間を多く過ごすのは、家庭、教会、社会です。社会とは、外のことで、ご近所、職場などを含みます。聖書は、ありがたいことに、人とどう接したらよいのか、教えています。


家庭では、

  • 子供は親を敬いなさい。
  • 夫は自分を愛するように妻を愛しなさい、辛くあたってはいけない。
  • 妻は、キリストに従うように夫に従いなさい。
  • 親は、子供を怒らせず、いらだたせず、イエス様がしたように子供をしつけ諭しなさい。


 職場では、

  • 上の立場の人には、キリストに従うように、真心を込めて喜んで従いなさいとあります。-部下に対しては、脅すことはせず、公平に関わりなさいとあります。

教会では、

  • 互いに愛し合いなさいと教えています。


 その他「互いに〜しなさい」という教えは誰に対しても共通の教えです。具体的な立場に応じた教えが聖書に書かれています。このような教えがある、何と幸いなことでしょうか。このような教えがある、何と恵みにあふれていることでしょうか。神は互いに愛し合って幸福となるように、私たちを教えて下さっているのです。神は何と恵みに満ちたお方でしょうか。


2.愛していくには信仰が必要 


 実際に人を愛そうとすると、相手の反応が気になります。こちらが愛しているのに、気づいてくれないのです。こちらが愛しているのに、応えてくれないのです。こちらが愛しているのに、それを当たり前と考えているようなのです。愛しても、何か損をしているような気持ちになります。相手はこちらを愛してくれるどころか、叱ったり、攻撃したり、八つ当たりしたりすることがあります。愛することをもうやめようと思うこともあります。ですから愛するには信仰が必要です。


 私たちには二つの生き方があります。

  • 一つは自分の力で生きるという生き方です。
  • 今ひとつは、神の力に頼って生きる生き方です。「信仰という生き方」です。神に信頼し、神に期待し、神にゆだねる生き方です。


 今日の聖書で「割礼を受ける」とありますが、これは自分の力に頼って生きる生き方を意味しています。「自分の力で生きる」生き方の反対は、「信仰」という生き方です。神は、「信仰という生き方」を喜ばれます。神に頼る生き方です。


 神を信じていても、自分の力で生きようとする人はいます。私たちは、神を信じ、神に頼る生き方をします。それが「信仰」という生き方だからです。

「正しい者は信仰によって生きる」(ガラテヤ3:11)

と書いてあるとおりです。これは神を信じて生きるという漠然としたことを述べたのではなく、「神に頼る」という「信仰という生き方」を意味しています。


 自分の力ではなく神の力に頼る生き方への転換、この転換には悔い改めが必要です。神に頼って神を賛美するより、自分の力で生きて自分を誇りたいという高慢があるからです。
神に頼る生き方にも、努力は必要です。自分の力で生きるのとは別な努力です。ここでは信仰を働かせる努力が必要となります。神に頼る生き方は決して安易な生き方ではありません。恐れ、疑い、思い煩いを拒否して、ひたすら神に信頼し続ける努力をします。自分の力に頼る生き方は行き詰まり、どうしていいかわからなくなります。挙げ句の果てに、幸福になれないのを人のせいにしたり、自分のせいにしたりします。神に頼る生き方には行き詰まりはありません。


 信仰が私たちに与えるものがあります。第一に希望です。私たちは神に期待します。神は全能であり、憐れみに富むお方です。神は私たちを顧みて下さるのです。私たちは希望を持つことができます。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル11:1)。信仰とは、自分が望んでいる事柄が現実になると確信することです。信仰は疑うことを拒否するのです。信じ続けるのです。信仰は神の賜物です。


 信仰が与える第二のものは、忍耐です。私たちの願いが実現する時があります。私たちはその「時」を待つのです。そのためには忍耐が必要です。農夫も収穫の時が来るのを忍耐をもって待つのです。


 第三に愛する力が与えられます。私たちが愛に生きるためには、キリストが与えて下さる自由が必要です。


3.自由にされてこそ、愛することができる 


 キリストが与える自由には二種類あります。

  • 束縛からの自由です。束縛からの解放です。
  • 束縛への自由です。喜んで自らを束縛させるのです。

「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」(ガラテヤ5:1)。

 束縛からの解放・自由。愛することを妨げる諸要素からの解放です。人を愛そうとすると、相手がどんな応答を見せるかによって、私たちの心に様々な思いが湧いてきます。これだけ愛しているのに気づかないで、なんて鈍いの! いらだちを感じます。・・・


 色んな思いが湧いてきて、愛するのをやめようと思ったりします。思い煩い、いらだち、憎しみ、恨み、赦せない思いに束縛されることからの自由です。この自由が与えられると、私たちは寛容になり、謙遜になり、柔和になり、愛をもって相手に接することができるようになります。


 束縛への自由とは、わざわざ不自由になるということです。相手がどうであれ、こちらは愛し続けるのです。相手がどうであれ、相手に従おう、相手に仕えようとします。相手がどうであれ、相手の立場に立って物事を考え行動するようにするのです。


 私たちは自分のことしか考えないという束縛があります。この束縛から解放されて、他者のことを考えるよう自らを束縛するのです。これもまたキリストの与える自由です。
私たちがキリストから与えられる自由に生きる時、心から愛することができ、愛する幸せを獲得できるのです。


私たちの家庭が、職場が、教会が、喜びとなっていくのです。
信仰者は、愛の業に励み、幸いな人として生きていくのです。
そして私たちは、神の律法を全うすることになります。