クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

本日のメッセージ(2009.8.9)
聖書 ヨハネ一3:1〜3 自分は何者か


 アイデンティティーという言葉があります。英語です。日本語には訳しにくい言葉なので、英語の発音のまま使います。自分がどういう存在であるかを表現するもの、それをアイデンティティーと呼びます。


 先日中国のウィグル自治区で、ウィグル人の暴動が起きました。ウィグル人は、自分たちの言葉を持っています。でも公の場では、中国語を使うことを強制されているとのことです。自分たちの言葉を使えない、それは自分が自分でなくなることを意味します。自分のアイデンティティーを失うことになり、これは危機です。これも暴動が起きた一つの原因だと思います。自分が自分であること、自分のアイデンティティーを維持することは大切なことなのです。母国語というのは重要なアイデンティティーです。


1.アイデンティティーとは何か 


 ある人が「私は泣き虫です」と言ったとします。すると「泣き虫」、これもその人のアイデンティティーとなります。アイデンティティーは、その人がどういう人であるかを示します。


 「私は日本人です」という時の、日本人、これも私のアイデンティティーです。つまり国籍の上で、私がどういう人間であるかを伝えるし、私は日本語を使う人間であることを伝えます。意味しています。「私は牧師です」という時の牧師、これもまた私のアイデンティティーになります。私という人間の職業が何かを示しています。私は忍耐強い、という時の忍耐強いという性質、これも私のアイデンティティーです。

私という人間がどんな人間であるかを表現する言葉をひっくるめて、私のアイデンティティーということができます。

 日本人という国籍、牧師という職業、好奇心が強いという性格、クリスチャンという立場、これらは皆、わたしのアイデンティティーと言うことができます。


 そして人は、自分のアイデンティティーに従って行動するということです。私は日本人なので、日本語を使って話しをします。好奇心が強いので物事を探求しようとします。泣き虫の人は、何かというとすぐ泣きます。


 そして、自分のアイデンティティに反するようなことはなかなかできないのです。怒りっぽい人が、忍耐強く振る舞うのは難しいです。忍耐強い人が、怒りっぽく振る舞うのは難しいです。泣き虫の人が泣くのを我慢することは難しいです。人は自分のアイデンティティーに一致する行動は平気で自然に行うことができます。人は自分のアイデンティティーとは違う振る舞いはなかなかできません。これは非常に大切な真理です。


2.アイデンティティーを知る益とは何か 


 信仰者は、神の教え、戒めを行うことを大切に考えます。神の教えは、どの教えも簡単に実行できるとは限りません。難しいと思える教えがあるし、絶対従いたくないという教えもあります。たとえば、人を赦しなさいという教えは、多くの人は難しいとか、従いたくないと思っています。しかし、神の教え、神の戒めは、本来実行すべきものです。ところが守れない、守りたくないという現実があり、信仰者はそこで悩みます。


 頭では従うべきと思っても、心がついて行かないという状況が生まれるのです。心の中に葛藤が生まれるわけですね。悩んでいる内はまだ良いのですが、その内に、できっこないと割り切り、不従順に陥ります。人は自分の不従順を見ないように、忘れるようにします。


 神様の教えは何が何でも守るべきという立場を律法主義と呼びます。真面目です。しかし律法主義に陥ると、信仰生活が苦しくなります。どうしたら素直に神の教えを行う素直で従順な信仰者になれるのでしょうか。この問題の解決の一つの糸口は、アイデンティティーです。特に、クリスチャンとはどういう存在であるかを知ることです。クリスチャンのアイデンティティーを知ることです。なぜなら、人は自分のアイデンティティーに一致する行動は平気で自然に行うことができるからです。クリスチャンのアイデンティティーを持つ、これが大切なのです。ここにアイデンティティーを知る益があります。


 クリスチャンというのは独特のアイデンティティーを持っている存在なのです。今日の聖書にこう書かれています。1節。

「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。

 「神の子」これはクリスチャンのアイデンティティーです。クリスチャンは神の子なのです。神に愛されている神の子です。だから祈る時、神のことを天の父と呼びます。

「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(コリント二5:17)。

人は、洗礼を受けキリストに結ばれた時、新しく造られた者になります。「新しく造られた者」、これもクリスチャンのアイデンティティーです。

「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(ローマ6:17)。

「罪からの解放されている」、これもクリスチャンのアイデンティティーです。罪に縛られず、罪を克服できるようになった人なのです。


 主イエスの言葉でよく知られた言葉があります。

「あなたがたは世の光である。あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)。

 主イエスは「あなたがたは世の光になりなさい」とは教えていません。「地の塩、世の光である」、これもクリスチャンのアイデンティティーです。私たちは、クリスチャンはどういう存在なのかを聖書から知る必要があります。

このようなアイデンティティーを自覚する時、私たちは、神の教え、戒めに従順になることができます。


 神の子は、父である神様の教えを喜んで従うことができるのです。神の子は、父である神の教えを素直に受け入れ、従うのです。そこには無理がありません。人は自分のアイデンティティーに一致することは自然に行えるのです。自分のアイデンティティーに反することは、なかなか行えません。


 そこで大切なことは、聖書における神の教え、戒めというのは、クリスチャンとしてのアイデンティティーを持った人に向けられた教えであると知ることです。そしてクリスチャンとしてのアイデンティティーを自分は持っていると知ることです。


 子どもに対して、「おまえはだめな子どもだ」と親が言うと、子どもは自分はだめな人間だと考え、卑屈になり、できることもできなくなります。あることに取り組んでうまくいかないとやっぱり僕はだめな人間だと考えてしまいます。逆に親が「おまえはやればできる人間だ」とほめると、できないと思えることも挑戦してできるようになります。失敗しても繰り返しチャレンジし、ついにはできるようになります。子どもを励ましほめることは子どものアイデンティティーを育てる点でとても大切です。


自分がどういう人間であるかのアイデンティティーそれが重要なのです。


3.アイデンティティーに生きる 


 繰り返しになりますが、信仰者として生きる上で大切なことは、クリスチャンとはどういう存在であるかを知り、自分がそういう存在になっていることを信じることです。自分がクリスチャンとしてのアイデンティティーを持っていると考えることです。


 私は神の子である、新しく造られた者であって、信仰を持つ以前の古い私ではない、と認めることです。そのように考えるのです。私は罪の支配から解放された人間だ考えるのです。私は、世の光になっている、地の塩になっていると認めるのです。


 実感が伴わなくても、自分はクリスチャンであり、クリスチャンとしてのアイデンティティーを持っていると考えるのです。これはマインドコントロールではありません。私たちは信仰者です。私たちは信じる者です。神を信じるとは、神がクリスチャンとしてのアイデンティティーを私たちに与えて下さったと信じることです。


 アイデンティティーを受け入れるのに苦労することがあります。実感が持てないからです。CSの夏期学校は、「あなたの価値はどのくらい」というテーマで行いました。「私の目にあなたは価高く尊い」と神様は私たちに語りかけます。私たちは価値ある存在なのです。価値ある存在、これもまたクリスチャンのアイデンティティーです。しかし多くの人はいつの間にか、自分はだめな存在だと思ったりします。だめな人間というアイデンティティーを造るのです。そういう人が自分は価値ある存在だと認めるのは簡単ではありません。自分はだめな人間と思っていると、神の教えに従えない時、やっぱり自分はだめな人間だと思い、自分はだめな人間という世界から逃れ出ることができなくなります。


 聖書が告げるクリスチャンのアイデンティティーを受け入れることができるのは、聖霊の導きによります。聖霊の導きにより信じることができるようになります。信仰は、神の賜物です。クリスチャンのアイデンティティーを受け入れることができるのは聖霊の賜物です。神は恵みとしてクリスチャンとしてのアイデンティティーを与えて下さっているのです。


 クリスチャンのアイデンティティー、それは神の子であること、新しい存在であること、罪から解放されていること、地の塩、世の光であることです。これらはまだクリスチャンのアイデンティティーの一部でしかありません。聖書を読むと、クリスチャンはいかなるものであるかをさらに発見することができます。


 アイデンティティーを受け入れたら、あとは一歩踏み出すのです。僕は神の子だから、神の子らしく生きていこう。神の子らしく振る舞おう。失敗してもいいのです。繰り返すうちにできるようになります。そこにクリスチャンとして生きる喜びや感謝が生まれてきます。神の子らしく生きる、罪から解放された者として生きる、新しく生まれ変わった者として生きるのです。クリスチャンになったから、クリスチャンらしく生きていこうと願い、歩むだけです。信仰者だから神の教えを守らなくては、と気負う必要はありません。神の子として喜んで自然に振る舞うだけの話しです。


 クリスチャンとしてのアイデンティティーを受け入れるか否か、それが信仰者としての歩みを決定する分岐点です。クリスチャンである自分はどのような存在であるのか、そのアイデンティティーを知り、それを受け入れ生きること、それが信仰生活の秘訣です。


祈り

 神様、あなたは私たちを信仰者へと招いています。新しいアイデンティティーに生きるように教えてくださっていることを感謝します。

 新しいアイデンティティー、それは神様の賜物です。恵みです。クリスチャンとしてのアイデンティティーが自分の内にあることを知る時、私たちは、クリスチャンとして自然に神様に従順に歩むことができるようになります。

 私たちがアイデンティティーと言うことに目を留め、私たちに与えられている恵みを喜ぶことができるように導いて下さい。そして信仰者として生きる喜びと感謝へと導いてください。

 クリスチャンとしてのアイデンティティーに生きる自分を喜ぶ幸いを感謝します。
 イエス・キリストのみ名により祈ります。