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隠退牧師 holala によるブログ

 第10日 礼拝の本質


暗唱聖句

自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。(ローマ6:13b)


1.要約1

  • 神に降伏することは礼拝の本質です。それは神の驚くべき愛と憐れみに対する自然な応答です。神に喜ばれる礼拝とは、自分自身を完全に神に献げることなのです。
  • 私たちが神に降伏するのを妨げるものが三つあります。それは、恐れ、プライド、混乱です。

 そこで大切なことは

  1. 神を本当に信頼すること
  2. 自分の限界を認めること
  3. 降伏することの意味を知ること
  • 神に降伏して生きるとき、降伏の恵みがあります。平安、自由、神の力の体験です。また神に用いられる人になります。
  • 神に降伏して生きるのは、最高の生き方です。そして唯一の生き方です。それは理性的知的行動であり、最も責任ある思慮深い行動です。


2.要約2

礼拝の本質は降伏にあります。


 「降伏」には、敗北というイメージ、否定的なイメージがあります。誰も敗者になりたくないし、今日の競争社会においては、あきらめず勝者になることが目指されているので、受け入れがたい面があります。


 神に降伏することは礼拝の本質です。それは神の驚くべき愛と憐れみに対する自然な応答です。自分自身を神にささげるのです。私たちは、恐れや義務感からではなく、「神がまず、私たちを愛して下さった」ので、自分自身を神に献げるのです。


 神に喜ばれる礼拝とは、自分自身を完全に神に献げることなのです。個人的に降伏するするというこの行為は、様々な呼び方がなされている。


 聖別される、イエス・キリストを自分の主とする、自分の十字架を負う、自分自身に死ぬ、聖霊に明け渡すなど。重要なことは、降伏することであり、人生のすべてを神に明け渡すことを神は願っています。


 私たちが神に降伏するのを妨げるものが三つあります。それは、恐れ、プライド、混乱です。


(1)神は本当に信頼できるお方か(恐れ)

 信頼こそ、降伏するための必須条件です。神のことをよく知らなければ、神を信頼することはできません。恐れが降伏するのを妨げるからです。神がどれほど愛して下さっているのかがわかればわかるほど、神に降伏することは容易になっていくのです。


 神の愛はどのようにしてわかるのでしょうか。

  • 神はあなたを愛しているといっておられる。
  • 神はあなたのことを、その人生の細部まで気にかけておられます。
  • 神は楽しむという能力を与えた。神はあなたの人生にすばらしい計画を持っている。
  • 神はあなたを赦してくれる
  • 神はあなたに対して愛情深く、忍耐強い。
  • 神の愛の最大の表現は、あなたのために、御子を犠牲にされたことです。

 神は、無理矢理に私たちを従わせようとする方ではなく、私たちが自主的に明け渡すように招いておられるのです。神は愛の方であり、私たちを解放視して下さる方です。神に降伏するとは、自由になることです。明け渡すとき、神が、救い主であり、兄弟であり、友であることがわかります。


(2)自分の限界を認めること(プライド)

 降伏を妨げる第二の障壁はプライドです。私たちは、自分が単なる被造物であり、一切の責任を任されているわけではないことを認めたがりません。


 すべてを支配したいという願望が、私たちの生活における多くのストレスの原因となっています。人生は苦闘の連続であり、ヤコブの格闘と同じように、実は神との格闘なのです。私たちは神になりたいと思いますが、勝ち目はありません。


 私たちは、自分が人間であることを頭では理解しているものの、感情的にはそうでないことがよくあります。私たちは限界に直面すると、いらいらし、怒りだし、憤慨してしまいます。もっと、もっと、と何もかも手に入れたいと考えます。思うようにいかないと、うらやみ、妬み、嫉妬心と自己憐憫にさいなまれるのです。

「多くの人がいまだに悩み続け、求め続けていながら、ほとんど進歩らしい進歩を遂げていないのは、彼らがまだ自分の限界に達していないからです。私たちはいまだに自分の考えで物事を進め、神が私たちを通して働かれようとしているのに、それを妨げているのです」。


(3)降伏することの意味(混乱)

 降伏するとは、

  • 受け身的に断念する
  • 運命論的になる
  • 怠慢になるための言い訳
  • 現状に甘んじる
  • 臆病になる
  • 言いなりになる
  • 合理的思考を捨て去る
  • あなたの個性を押し殺す


 私たちが自らを神にゆだねていくに従って、私たちは本当の自分自身に帰っていく。なぜなら神が私たちを造られたからである。私たちがキリストのもとに立ち返り、自分自身を明け渡すとき、私たちの個性は息を吹き返す。


 降伏は、「従順」「信頼」という姿勢に現れます。


 従順とは、神が望まれるならどんなことにでも、「神様、わかりました」と応じる姿勢です。「いいえ、それは無理です」と拒むのは矛盾することになります。キリストを主と呼びながら従うことを拒むことはできない。神に降伏した人は、その意味がわからなくても、神の言葉に従います。


 他の人を動かそうとしたり、自分の思いを無理に通そうとしたり、状況を変えようとするのではなく、神が働いてくださることを信じる時、あなたは神に降伏しているのです。 もっと努力するのではなく、もっと信頼するのです。批判を甘んじて受け入れ、自己弁護しなくなっているとき、自分が降伏させられていることがわかります。


 多くの人にとって、お金の問題ほど降伏するのが難しいテーマはないでしょう。
 降伏の最高のお手本は、イエス・キリストです。
 純粋に降伏している人は次のように言います。

 「天のお父様、もしこの問題、痛み、病気、あるいは状況が、あなたの目的のため、私や他の人の人生においてあなたの栄光を現すために必要なことであるなら、どうぞそのままになさって下さい」。


(4)降伏の恵み

 神に人生のすべてを明け渡すとき、もたらされる恩恵があります。第一に、平安を得ることができます。第二に、あなたは解放され、自由になります。第三にあなたは人生において神の力の体験を体験することができます。

 神の御手(支配、導き)の中に明け渡された人生ほど力強いものはない


(5)降伏は最高の生き方


 誰でも皆、最終的には、何かに、あるいは誰かに降伏するものです。神に降伏するのでなければ、次のものに降伏することになります。

  • 自分の考え、人の期待、お金
  • 怒り、恐れ、プライド、欲望、エゴ

 もし神を選ばなければ、偶像を造り、それに拘束されることになります。


 降伏は、最高の生き方、いや、それは唯一の生き方というべきです。それ以外の生き方では、うまくいくことはありません。他の生き方では欲求不満に陥り、失望し、破滅の道をたどります。


 人生を明け渡すことは、愚かで感情的な行為ではなく、理性的、知的行動である、自分の人生のためになし得る、最も責任ある、思慮深い行為なのです。最も賢い決断は、神に「はい」と申し上げることなのです。


 人生の祝福を妨げているのは、自分自身です。もし神があなたの人生の体質改善に取りかかられるなら、次のことから手をつけられるでしょう。

  • 過去の後悔
  • 現在の問題
  • 将来の野心
  • 不安
  • 弱さ
  • 習慣
  • 痛み
  • こだわり


 これらすべてを神の前に差し出すのです。イエス・キリストにあなたの人生の運転席に座っていただき、あなたはハンドルから手を放すのです。


 キリストに支配していただくならば、あなたはどんな問題にも対処できるようになるのです。降伏するというのは、一回限りの出来事ではありません。降伏する瞬間と降伏する週間のどちらも必要です。あなたがすべてを明け渡して生きていこうとするなら、その決意は必ず試されます。あなたが降参するときが来ました。神の恵みに、愛に、そしてその知恵に、すべてをゆだねるときは今なのです。



3.テキストを読んで

 なるほどと教えられるところが多かったし、また共感するところも多かった。今まで達成感に束縛されていた面があったが、「成長」ということを考えて、焦ることからかなり解放されたと思う。つまり信仰者を育てるという営みは、それが成長を目指すものであるので、一朝一夕にはいかないということを確認した。そして焦りからは解放された。そして達成感を生きる目標とすること、達成感に駆られて生きることも自由にされたと思う。今は、落ち着いて着実に歩むことを心がけている。学んでいる人の成長もまた、神様に期待し、神様にゆだねる思いである。


「もっと努力するのではなく、もっと信頼するのです」という言葉が心に残った。神への降伏は、一回限りのことではなく、降伏する瞬間があり、降伏の習慣も必要であるとのことで、習慣を確かにしていきたい。


 自分としては、神に降伏しているつもりであるが、降伏している人はどういう生き方をするのか、それをマスターしたいと思う。


 神に信頼することはもちろんであるが、神に信頼するとは努力をしなくてもよいということではない。神に信頼する中でどういう努力をするのかは、ディボーションをしながら導きを受け取っていきたいと思う。


 もう一度、丁寧にこの箇所を読み、自分を吟味し、神に降伏するために、自分の課題を発見したいと思う。


4.熟考するポイント 礼拝の本質は降伏するところにあります。

  • 賛美は、神をたたえることである。人は自分が賛美されることを求めるが、信仰は、神をたたえる。自分ではなく、神をたたえ賛美するのが信仰者のすることであり、それは神の前に身を低くすることによって可能となる。崇めるとは相手を高くすることである。
  • 説教を聞くこともまた、神の言葉を聞くことであり、従順な思いで、つまり御言葉に聞き従う思いで説教に聞く。御言葉の前に降伏し、神の言葉に従って生きるのが我々である。
  • 献金は、私たちが神にささげものをすることを象徴している。祈りもまた、私たちが身を低くして神に語りかける行為である。


 降伏とは、相手の前に自分を低くすることであるから、礼拝の本質は降伏にあると言える。


 聖書において人々が礼拝した姿と思い起こす。カインもアベルも神に供え物を献げた。洪水の後ノアは、祭壇にささげものを献げた。アブラハムも神の示す地に行き、祭壇を築き、主の名を呼んだ。祭壇を築くという表現が、創世記にはよく出てくる。イサクもヤコブも祭壇を築いている。申命記では主の祭壇を築くことが語られている。ヨシュア記、サムエル記と祭壇を築いたことは語られる。人々は、神のみ業に感謝して、祭壇を築いている。

 「礼拝は、神の驚くべき愛と憐れみに対する自然な応答」あるが、聖書に登場する人物は、応答して、神を礼拝している。


5.考えてみよう

 私が神に隠しているのは、人生のどの領域でしょうか。

特にないと思う。