クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

 ヨナ書 二章 ヨナを救う神

本日のメッセージ(2009.9.13)
聖書 ヨナ書 二章 ヨナを救う神


 今日は、神が遠くにいると思われる時、実は、神は近くにおられるという話しをします。辛いことや苦しいことがあり、どうしてこんな事になるの、と思えるとき、神を遠くに感じます。神が顔を隠しているように思えます。神に見放されたと感じる時があります。しかし、そんな時こそ、神は近くにおられるのです。


 先週から、ヨナの物語を取り上げています。神はある時、ヨナに命じました。ニネベの町に行って呼びかけるように。「後40日すればニネベの町は滅びると」。どういうわけか、ヨナは神の命令に従わず、神から逃れることができると考え、船に乗ります。ニネベとは反対の方向に行く船です。ところが船が出発すると神は大風を送り、海は荒れ、船は難破しそうになります。


 誰のせいで、急に海が荒れたのかを船乗りたちは捜そうとします。ヨナが原因だとわかると、人々は、「あなたをどうすればいいのか」とヨナに詰め寄ります。ヨナは「わたしを海に投げ入れればよい」と言います。そこで人々はヨナを海に投げ入れました。今日はその続きです。


 神は巨大な魚に命じて、ヨナを飲み込ませたとあります。そしてヨナは三日三晩、魚の腹の中で過ごし、その後に祈った内容が、今日の聖書の内容です。


1.神はヨナを見捨てられたのか 


 海に放り込まれたヨナはどうなったでしょうか。ヨナは、荒れている海に投げ込まれたときの状態をこのように述べています。

「潮の流れがわたしを巻き込み/波また波がわたしの上を越えて行く」(4節)。

「大水がわたしを襲って喉に達する。深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく」(6節)。

海の中、どんどん沈んでいくのです。

「わたしは山々の基まで、地の底まで沈み/地はわたしの上に永久に扉を閉ざす」(7節)。

 地の底まで沈むとは、死ぬ一歩手前まで行ったという意味です。「永久に扉を閉ざす」も、生き返る望みがなくなったとの意味です。ヨナが海に沈んでいるとき、実際にこのように意識していたのかどうかわかりません。どんどん沈む中で、苦しさのあまり、ヨナは意識を失ったと思います。しかし、神は生きて働かれるのです。

「さて、主は巨大な魚に命じて、ヨナを呑み込ませられた。ヨナは三日三晩魚の腹の中にいた」(41節)。

 海に放り込まれたヨナは、自分が生きていることに気づきます。まず真っ暗です。触れるところ、みなぬるぬるしているような気がします。魚の腹にいるのだとヨナが理解したのかどうかわかりませんが、魚は海の中を泳いでいるので、ヨナは揺れを感じたでしょう。魚のお腹の中にいるって想像したかも知れません。時間の感覚もなくなったでしょう。ヨナはそんな中、何が起きたのかを考え、振り返るのです。


 何よりも、自分は生きている、自分は助かったと認識します。ヨナは自分の身に起きたことを振り返ります。4節。「あなたは、わたしを深い海に投げ込まれた」。ヨナは、神が自分を海に投げ込んだと述べています。私たちはここで「えっ」と思います。ヨナが船乗りたちに自分を海に放りこみなさい、と言ったのではないか。なぜ、神が自分を海に投げ込んだと言ったのでしょうか。


人間には、自分が原因でいやなことが起きたとき、それを人のせいにすることがしばしばあります。自分が行ったことが原因なのに、人が行ったというのです。ヨナの気持ちがそう言わせたのです。自分は神に追放されたと思っている気持ちがそう言わせたのです。

「 わたしは思った/あなたの御前から追放されたのだと」(5節)。

神の命令に逆らったので自分は海に投げ込まれた、神から追放された、そう考えたのです。


 人間は、危機に陥ると神に助けを求めるものです。2節で、「苦難の中で、わたしが叫ぶ」あるいは「陰府の底から助けを求める」とあります。陰府というのは死者の行くところです。死にそうになって、自分は助けを求めたというのです。8節、「息絶えようとするとき/わたしは主の御名を唱えた」。彼は神に祈ったのです。そして神はヨナを助けたのです。2節「主は答えて下さった」「私の声を聞いて下さった」。


 ヨナは、魚の腹の中で考えは動いていきます。自分は神に追放されたと思ったが、実は、そうではなかった、自分は神に助けられたのだ。そしてヨナは神を賛美するのです。

「救いは主にこそある」。

 神に追放された、それはヨナの誤解です。もし神がヨナを追放し、見捨てるなら、ヨナが船に乗ったとき、見捨てればいいのです。勝手にしなさいヨナ。好きなところに行きなさいヨナ。別な人間を選び、ニネベに行かせればよいのです。


 ヨナが乗った船が荒れ狂う海で難破しそうになったのは、なぜでしょう。神がヨナを追いかけているからです。海に放り込まれたヨナを神が助けるのはなぜでしょうか。神がヨナに使命を果たして欲しいからです。ヨナは神に見捨てられるどころか、神に捕らえられているのです。


 私たちが、苦しいことや辛いことにあって、神は隠れている、神に見捨てられた、と思うことがあるかも知れません。そんなときこそ、神は近くにおられるのです。神は救う神として、そば近くにおられるのです。ヨナの物語は、そのように私たちを教えています。


2.神に失望した人々 


 聖書には、神に追放された、裏切られたと思ったことのある人が登場します。たとえば、アブラハムです。神は彼に「わたしの示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にする。あなたの名を高める」と約束しました。彼は年取ってから、神の声を聞き、住み慣れた町を離れ、旅をし、見知らぬ土地で生活を始めます。彼には子どもがありません。


 「あなたを大いなる国民にする」というのですから、子供が生まれるはずです。しかし子供は生まれません。彼も妻もどんどん老いていきます。彼は、子を授かるという望みを捨ててしまいます。


 そして妻の女奴隷によって子を得ます。確かに自分の子を得るのですが、これは苦肉の策です。妻の子でなく、女奴隷から得た子の子孫が大いなる国民になる。そう考えたら、素直には喜べないと思います。彼は、神に失望しました。


 何年か過ぎて、再び神は、アブラハムに、あなたの妻があなたの子を産むと告げました。夫婦共に、子どもを産むには年を取りすぎていたので、アブラハムは神の言葉を信じませんでした。彼は深く神に失望していました。しかし神は、彼のそば近くにいたのです。神は何もしていないように見えます。神はアブラハムに特別なことを教えようとしていたのです。神は彼を信仰の父にしようとしたのです。神を信じるとは、アブラハムのように生きることだよと、信仰者の模範にしようとしたのです。その模範とは、全能の神を信じるという模範でもあります。彼は100才の時、妻によって子を得ました。


 モーセもまた、神に裏切られたと思い、神に失望した人です。聖書の出エジプト記に書かれていることを紹介します。昔、昔、イスラエルの民は、エジプトにおいて、奴隷として苦しみの生活を送っていました。神はイスラエルの民を救うための指導者としてモーセを立てました。モーセは、自分のような者が、指導者として働けるのか、自信がありませんでした。


 彼が神に命じられたとおりに働くと、物事はうまくいかず、彼はイスラエルの民から責められるのです。神に、あなたは少しも救おうとしてくれませんと抗議をします。モーセも、神に失望し、見捨てられたと思ったのです。しかし、神の素晴らしい働きを見ることになります。そしてイスラエルの民はエジプトから解放されます。


 人間は、今しか見えません。神が用意しておられる未来は見えません。神に追放されたと思えるとき、神の目はあなたに注がれているのです。ヨナと同じように。神に見放されたと思うとき、神はあなたを捕らえ、あなたに期待しているのです。ヨナのように。神はどんなときも、あなたと共におられるのです。


 聖書には、神に失望し、辛酸を味わった人が何人も登場します。しかし、彼らは神に見放されたのではなく、神がそばにおられたことを聖書は語っています。
辛いことや苦しいことがあり、どうしてこんな事になるの、と思えるとき、神を遠くに感じます。神が顔を隠しているように思えます。神に見放されたと感じる時があります。しかし、そんな時こそ、神は近くにおられるのです。


祈り


天の父、「私は世の終わりまであなたと共にいる」をイエスは約束して下さいました。
神様は、いつも私たちと共にいて下さいます。
しかし、疑う心が生じてきます。
聖書を読むとき、信仰に生きた人々の話が私たちを励まします。
聖書に親しみ、信仰に生きる者として下さい。
神様が遠くに思える人がいましたら、慰めてください。
私はあなたのそばにいると親しく語りかけて下さい。
晴れの日も雨の日も、神と共に歩む者として成長させて下さい。
弱い私たちを憐れんで下さい。
イエス・キリストのみ名により祈ります。